華光精神の宣布
今年も3日間の華光大会が終わった。
3年に渡る修繕事業を行っている。会館の内装、外壁の工事は、一部の追加部分を除いて終えることができた。募金活動は来春まで続くが,分割予定の方を含めると目標額に達することができた。リニューアルされた華光会館での華光大会、いつにもまして力が入った。
これは一般の寺院でも同じことであるが、伽藍を維持し後世に相続することは、(外部からみると)当たり前のように見えるが、とてもたいへんな難事業である。殊に、今は、何のために伽藍維持のために喜捨するのかという意義が薄らいでいる。意味のないことに無駄をお金を使いたくない。お寺にお金や時間を使いたくないという世代が、急速に拡がっているのが現状だ。
華光会館の場合、その存在意義は明確だ。ここには、先祖供養や骨のために集う人たちはない。生きたお念仏か息づいているからこそ集う人達である。純粋な念仏道場、聞法道場であるからこそ人が集い、修繕事業もなすことができたのだ。つまり、いくらきれいになっても、また沢山の人が集ったとしても、そこに仏法を喜び、自分事として聞法する人達たちがいなければ、そしてその人達の口から念仏の声が響き渡る、そんな場でなければ、何の意味もないのである。皆様のおかげで、20年に一度の事業をなし終えることができて、改めて、華光会館の存在意義、僕自身の使命を強く感じさせていただいた。
そのこともあって、冒頭のご法話は「華光精神の宣布」と題した。いま、ここに連綿として流れる仏法の精神が息づいているのは、私達の前を歩まれた先達方の確かな歩みに触れたからである。それは教えが、単なる文字や儀礼、型の中にあるのではなく、生きた人格を通した念仏となって、お出会いさせもらったのである。
ならば、それを次にまた相続していかねばならない。私の仏法を喜ぶ姿に触れて、また仏法を喜ぶ人が生まれてくるのである。幸いなことに、今回の華光大会でも、福岡や東京や神奈川などから初参加者が多くあった。老若男女、智愚、聞法の長短を超えて、真摯に、私の後生の一大事の解決を求め、廃立の一念を誤魔化さず、仏法を喜ぶ身と成らせて頂ける、そんな念仏道場がここにあるのだ。
| 固定リンク
« 連続無窮のお導き | トップページ | ゴミに想う »
「法座と聞法」カテゴリの記事
- 京都支部法座~2月の連続法座(6)(2024.02.23)
- 第3回「長命の集い」2日目~2月の連続法座(5)(2024.02.21)
- 第3回「長命の集い」初日~2月の連続法座(4)(2024.02.20)
- 久しぶりの広島法座~2月の連続法座(3)(2024.02.19)
- 華光誌輪読は「同人さん…」~2月の連続法座(2)(2024.02.18)