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ゴミに想う

 3日間の大会を終えた早朝、連れ合いは公演のために福島に旅立った。今日は事務所の皆さんは休日。ぼくに課せられた使命は、ゴミ出しである。今日は生ゴミ。明日は、プラゴミ、明後日はカンビンである。仕分け直しや詰め替えなどをした。生ゴミは臭くなる。生きているものだからだ。今は外食の人も増え、また弁当箱の回収もあるので、この程度のゴミですんでいるが、これが3日間、人が集うということである。

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 でも、最初から「ゴミ」として生まれてきたものはない。すべて、私が利用して、私の役に立って、不要になたから「ゴミ」として捨てるだけのことである。役立つものは利用したい。不要になったら遠くにやりたい。私の貪欲のあらわれである。

 「ゴミ」もすべて「いのち」あるのもだった。いのちからゴミを生み出すのは私なのだ。私こそがゴミの張本人だ。この体は、外のいのちを取り込まなければ生きていけない。そしてそこから出すものをすべて「クソ」という名にしていく。そして最後、私のいのちを終えたなら、体も腐り、骨だけになってしまう。動物たちがそのいのちを私に施すのに、私は誰にも食べられることのないまま、そのいのちに執着しきって死んでいく。しかも、そんな身内の骨を「遺骨」と称して、大切に敬い、拝み、散財して墓を造る敬い奉る。もし、それを「ゴミ」扱いされたら、冒涜だと烈火のごとく怒るだろう。私のいのちとなるために食べてきた肉や魚の骨は、ゴミだと汚がって捨てているのにだ。
 
 役立ってくれたものをゴミだと嫌い捨て、ゴミ製造の張本人のものは尊いと拝み奉る。

 逆じゃないのか?

「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」

とは親鸞様。それを伊勢の村田和上は、「三厳二十九種で清浄な荘厳された如来様にとって、こんなゴミのような私の身を粉にしても、骨を砕いてもご迷惑なだけだ。でも、それを喜んで受け取ってくださるのだ」と。
 如来様は、この轉倒して浄穢も分からない私を喜んで受け取ってくださるのである。

 伊藤先生は、「如来様を食らうことばかり考えないで、エンマや鬼でもい、如来様ならなおさらいい。この私をムシャムシャと食っていただけ」とお示しくださった。南無阿弥陀仏

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