華光誌輪読法座~生ぬるいは誰か?~
78-4号の華光誌、巻頭言「金剛堅固の信とは」と、聖教のこころ「無縁の大悲」を読む。
一読目、「難しいな」、との声が出て、感想や質疑はなかった。それで、今度は、段落ずつ区切り、詳しい解説をいれながら読むことにした。
初参加の高齢の男性が、積極的に、しかも大胆な発言をされる。「親鸞聖人の教えは、生ぬるい。歎異抄も、後半は、曖昧で、どうでもとれる(たとえば、1+1=2とも、1+1=2だけでもない)箇所がある。第一、私のこころでは、信じろと言われても、いろいろと疑いが出てくる。ほんとうにこの願船でいいのか。穴が空いていないのか」というのである。
その方の言い分にも頷ける部分も多い。
しかし、生ぬるいは、聖人の態度ではなく、いま、私達の多く真宗の教えが、曖昧で、生ぬるいのではないか。法然様にしても、親鸞様にしても、「念仏ひとつ」のまことを護るために、弾圧を受け、流罪になられた。それでも決して、その立場を貫かれとおしたのである。世俗ではく、仏法に背くからである。
そして、いま、ここで輪読していた善鸞事件での親鸞様の態度にしてもそうだ。高齢の聖人は、親子の情や血を絶って、真実の法を護られていく。さらに「歎異抄」第2章にみる門弟との間で繰り広げられた態度。愚身を開いて自信のすべてを吐露されて、毅然として念仏者に向き合う姿勢である。そこには、法に対する真摯な厳しさしか顕れていない。
そのおかげで、私のところにも真宗の教えが息づいてきたのである。その真宗の信心の肝要は、「捨てものと拾いもの」、つまり廃立の水際にある。決して曖昧な、漠然とした信心ではないのだ。ない。
だが、今日、そこを厳しく問うことふ求めることは、異義、異端のように扱われるのである。曖昧な説教も多い。結局、ひとりひとりが、ほんとうに後生の一大事を、我が身に問うたならば、うやむやにしておける問題ではないではないか。
失礼ながら、残された時間は少ない。外野の皆さんが何を言おとも、私の信心の一点に焦点をあてて、ハッキリするまで求められるこどうお勧めした。生ぬるいは、親鸞様でも、真宗でもない。私自身なのだからと。
かなり力をいれてお話したが、どこまで伝わったかは分からない。こ因縁があるか、ないか。面々の御はからいである。
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