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名古屋での支部法座

 今回の東海支部法座は、ビルの一角ながら、江戸期から続く立派な御仏壇のある仏間が会場だ。貸会場のような便利さはないが、畳と仏壇のある雰囲気は代えがたいものがある。座談会も、周りに遠慮気兼ねなく進めることができる。

 輪読法座に引き続き、78-4号の華光誌、巻頭言「金剛堅固の信とは」を題材にする。
 
  善鸞事件を通して、関東の門弟たちに信仰上の混乱が生じたことに対する、親鸞様の態度やお応えを聞く。紙面の都合で省略したが、「歎異抄」の第二章の関東門弟と聖人との命がけの問答(問は隠されているが、応えから察しがつく)や、その時「愚身の信心におきてはかくのごとし」と、自らを開いて吐露された体験告白のすごさを味わった。
 
 要は、念仏を喜ぶ先達、善知識を頼りにするのではなく、たったひとりで孤独なわが身に立ち返って、弥陀の本願にぶちあたっていく以外に、開ける道はない。同時に、それは、わが身ひとりでは超えらない道であって、握らせず、突き放しつつも、決して見捨てないという、真の知識のお導きがなければ開けてこない難所だ。真宗の信心は、決して自己完結ではなく、他者との出会いを通して、翻させてもらう世界だ。

 善鸞事件は、高齢の親が頼りともう息子を義絶するという悲劇を招くが、一方、関東の門弟にとっては、嘘の皮の有り難い法悦の仮面が剥がされて、ただ一人、虚空に放り出される貴重な機縁となっていくのである。

 座談会は、時間も少しあったが、発言にしても、関わりにしても、隔靴掻痒(かっかそうよう=痒かゆいところに手が届かないように、はがゆくもどかしいこと。核心や急所に触れず、もどかしいことを、靴を隔てて痒いところをかくに譬えている)の感。それで、ある質問をきっかけに、篤く関わることなったが、、、。うーん。聞くことの難しさ、伝えることの難しさを、強く感じさせらることになった。せめてもう少しご法話が、生きるような座談になればと感じた次第。

 

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