久しぶりに燃えた「仏青大会」
9月末の仏青大会。京都は、両日とも32度を超えて、暑かった。もう10月、この時期になれば大丈夫と思っていたが、エアコンがなくて少し堪えた。天候は思い通りにはならない。
参加者は少なかった。お世話人は、悩んだことだろう。しかし、内容は、ご法を中心になった充実した集いになったのではないか。
ここ数年、仏青大会や研修会の進行について、一言いってきた。しかし、なかなか理解いただけなかったのが現実だった。人が集まらない、座談がうまくいかないので、企画が中心になっていた。別に、一座ぐらい企画があることは賛成だ。しかし、フリーの信仰座談会を中心に、ひとりひとりが力をつけていく、ひとりひとりの信を問うことがなければ、仏青とはいえ華光の集いではなくなる。
そのためには、場に慣れることも重要である。そんな慣れた人に近づく必要もある。確かに座談会やフリートークが苦手という方も多い。だからといって、法話を聞いてお終いではなく、そこを聞き会う。または法を喜んだ人に出会う。それでしか、ほんとうの聴聞にはならないのだ。今回は、参加者が少なくなったことで企画自体が難しくなったのが幸いした。
法座は、カウンセリングクルーブのような単なる心情的な分かち合いではない。しかし、ラボート(親密性)がないと、なかなかお互いが自分を開いて、じっくりと喜びや不審を出し出すことは難しい。そのプロセスも必要で、そのために、長時間の構成をもたない座談会も大切になのだ。
普通の集りなら、よどみなく、和やかに進行することが第一である。そのために気まずい沈黙を畏れる。しかし、ここでは反対だ。沈黙の中からしか生まれない言葉もある。逆に浮いた言葉がぶち壊すことも多い。沈黙にもいろいろな種類、意味があるのだ。
詳しくは述べられないが、久しぶりに感情的に、エキサイトしてしまった。ぼくの中で何かが動いていた。それも、真剣な聞法者がいたからだ。
厳しいことも言ったが、若い人たちも同じ聞法者、求道者であると実感した。ただ、小さな信仰に留まらず、大きく羽ばたいてほしい。仏法は、具体的に聞いていかねばならない。自分自身の問題、日常生活に関連した味わいがないと、観念的な独りよがりの喜びに留まってしまう。しかも仏法は、そんな今生事の悩みを超えた教えでもある。具体性をもちつつ、自分の悩みや心理的状況で、一喜一憂する小さなものではない。留まることなく、ご法にぶつかっていってもらいたいのだ。
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