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生駒での家庭法座~難信の法~

 3月と9月のお彼岸は、生駒での大阪支部の家庭法座である。施主の頑張りがあって、京都や大阪の同人を中心に、部屋が一杯になるほどのお参りがある。

 法座の前に、当家のおばあちゃんの17回忌を勤める。彼女とは、一緒にインドに行った仲間である。ぼくはまだ学生で、未成年の時。もう40年近い歳月が流れたが、あの時のことはよく覚えている。それだけ強烈な印象を受けた旅だったのだ。

 「阿弥陀経」を勤行の後、ご法話も『阿弥陀経』のお心をお取り次ぎ。限られた時間なので、最後に2度出でくる「難信の法」を中心に。釈尊の八十年は、五濁悪世で、今生事にどっぷりの迷いの衆生に、この難信の法(自力では信じられない他力本願の教え)を伝えるためにご苦労があり、それをなし遂げられたご生涯だと、ご自身でも、また諸仏方も褒めたたえておられるのである。しかし、それは釈尊だけではい。六方、つまり全宇宙に満ち満ちる無数の諸仏方も、また弥陀の本願を伝え、弘通するために、働き続けておられる。しかも、三千大千世界を覆うほどの長く広い舌(広長舌)を出して、弥陀の本願が真実であることを證明し、衆生に向かってご信心を勧めておられるというのである。そして、親鸞様は、その姿こそが、阿弥陀様の悲願(十七願)が成就の表れであり、真実なのだと喜ばれている。

 まったく私たちの基準にしている真実の證明とは、次元が違うのである。舌を出して證明する。小事の證明は、舌が鼻を覆い、大事の證明は、舌が面を覆う。ましてや大千世界を覆うほどの舌で證明されているのである。永観律師があらわされた『往生拾因』に引用された、「バラモンと釈尊、そして貧苦の老婆」とのエピソードを頂いて、いかに私たちが自分のはからい、自分の小さな想いにとらわれて、疑っているのかを頂いた。まさに「難信の法」である。

 しかしなかなか自己のこだわり、ちっぽけなはからいを捨てることが難しいかを、座談会では実地にお知らされた。

 「よくきくことも難ければ、伝えることもなお難し」である。

 

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