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7月の聖典講座~至誠心(2)

  では、至誠心とは何か。

 善導様は、至誠心とは、真実心のことであり、浄土の行の実践は、衆生の身での行い、口での言葉、心に思うこと、三業のすべてが、お浄土に相応しい真実心でなさねばならない。しかそれは、外面だけが「賢善精進」を装っていても、もし内心に嘘や偽りを懐いていてはいけない。外面の修行ではなく、その内面も真実であり、外と内が一致しているのである。もし、外面は頑張って修行していても、その内に愛欲や憎悪の心、よこしま、偽りの心が満ち満ちた心で、いくら行じても、すべて「雑毒の善」(毒の交じった)「虚仮の行」(中身のない虚ろで仮もの)である。たとえ頭に付いた火を払うほど必死で、終日、命懸けでなしたとしても、毒の交じった善をどれだけ振り向けても、決して、お浄土(真実報土)に生まれることはできないのである。
 なぜなら、お浄土とは、愛欲や憎悪といって煩悩が消滅した、清らかな涅槃界である。そのお浄土を建立される時の法蔵菩薩が行を行われ時、身も、口も、心も、一刹那も、真実心がかけたことがなかった。そんな世界に生まれるのだから、法蔵菩薩のなされたような真実心で、自利・利他の実践をなしなさいと。

 しかし、実際、真実に近づけば近づくほど、真実に背く自己が露わになってくる。そこを開きなおるのではなく、ひたすら懺悔(仏や修行僧の前で、罪を告白し、悔い改める誓い)するしかない。善導様自身も、毎日、自身に厳しい懺悔を繰り返されたという。それが三品の懺悔(『往生礼讃』)と示されている。
上品懺悔-(1)全身の毛孔から血の汗を流し、
              (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
中品懺悔-(1)全身の毛孔から熱き汗を流し、
                (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
下品懺悔-(1)全身が熱くなり、      
              (2)眼より涙を流して、懺悔する。
ちなみに、親鸞様は、
「真心徹到するひとは  金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと ひとしと宗祖はのたまへり」(高僧和讃)
と和讃されている。

 結局、真実に近づくほどに、凡夫に真実心は起こせず、煩悩具足の自覚が深まることになる。そのことが、次の「深心」-二種深信の「機の深信」と「法の深信」や、「回向発願心」に説かれる「二河譬」で絶え間なく渦巻く「火の河」「水の河」の譬えと、その間に生まれる白道にもつながっていくのだろう。

 その善導様のお心を受けて、自力で起こす真実心ではなく、他力で賜わる真実心とみられたのが親鸞聖人の立場である。
 親鸞様は、『観経』には「隠顕」-経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場であると頂かれたが、この三心にも隠顕」(自力の立場と他力の立場)があり、「隠彰」(内面に隠されたの他力のお心)から、善導様の真意を明かにするために、そのお言葉を、漢文を読みかえてまで、大胆に他力回向の立場を明かにしてくださったを、善導様の「散善義」と、親鸞様「信巻」を通じて窺った。
 一例だけをあげて結びとする。

、「不得外現賢善精進之相、内懐虚仮」
 善導様は、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
 (外面も真実、内面も真実であれ)

 親鸞様は、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」
 (内面が虚仮なのだがら、外面も偽善者ぶるな)
               
、「凡所施為趣求亦皆真実」
 善導様「おおよそ施為、趣求するところ、またみな真実なり」
 (施為=施すこと、利他)(趣求=浄土を求め趣く、自利)
 (法蔵菩薩のように自利・利他の真実の修行をなせという意)

 親鸞様「おおよそ施したまうところに趣求をなす、またみな真実あり」
 (如来より施したまう真実(南無阿弥陀仏)を賜わり、浄土に趣き向かうことが、真実心であるの意)

 私には、至誠心のかけられもなく、虚仮不実であることを信知させられて、自力の心を捨てて、如来より賜わる真実そのもの、すなわち南無阿弥陀仏をたのむことこそが、他力の至誠心なのだ、真意を明かにしてくださったのである。                                     

 8月は夏休みです。
 次回は9月1日(日)です。「深心」に入ります。二種深信、四重の破人など、安心上の最も重要な箇所であります。お楽しみに! 

 

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