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新機軸の壮年の集い

 今年の「壮年の集い」は、新機軸での開催。なによりも楽しかった。そして、いろいろな意味で、新鮮で、印象に残る集いだった。

 まず、幹事のひとり(副)が若返った。これはもうお一人(正)の方のご意向。華光の「壮年」は35歳からだが、次代を担う世代を巻き込もうという作戦である。それをこころよく引き受け、さらにこれまでにない企画を考えてくださった。さすがに新しい風は新鮮だった。実現したものも、実現しなかったものもあったが、法話-分級座談会、内容も決まったパターンという形式を打破して、参加者も共に法座を創造していこうという意味では、いい企画だった。ご講師も、初めての方。法話を最初するのてはなく、テーマに沿った少人数での話し合いがたっぷりあって、最後にまとめの法話をいただくという形式だった。いわゆる「連研」式であるが、形式よりも中身は濃密で、意義深かったとおもった。

 もちろん初めてということで、課題は残った。ある勧学の少し断定的な文章を読む話し合うたのだが、中には批判的な話し合いで終始したところもあったようだ。果たして、これが適切だったのか。またその意図がみんなに浸透していたのか。せっかくの新しいご講師だったので、もっとその方に出でもらてもよかったのではないか。課題もあった。

 2日目の午前中は、ぼくもその形式を受けて、自分を開いて話し合うというテーマを選んだ。皆さん、いきいきと楽しそうにしておられたのは事実である。ただ質問・話し合い事項が多くて、最後にまとまった法話はできなかった。「批判しない」といっていると、軽口でそれをやって(当事者は気付かず)、傷付いたという声も聞こえてきた。それよりも、しっかり法話が聞きたかったという声もあったのも、確かだ。

 いろいろと課題は残ったが、新鮮でよかったという声が多かった。おまかせではなく、自分たちが法座を創造していくという点でも、くさびが打たれたのである。もちろん法座を創造していこうという観点かみれば、もう一つ前段階から、壮年の皆さんで創っていく必要がある。ある方からの依存を脱していくことは、来年の宿題になった。

 お昼からの座談会、ぼくにはたいへん印象深いやりとりがあったが、ここに詳しく記載することはできないが、これもまた新機軸で行った成果であろう。

 もちろん第一回からの参加者が、卒業となたのも寂しくも、年齢制限のある壮年の集いの厳しさと、意義である。

 新しいことをやるといろいろな声ができるのは当たり前。後は、それを如何に吸収し、次回に生かすかである。真価が問われるのは、来年の集いである。そて、どんな成長を遂げるのか。いまから、次回が楽しみである。

 

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