« 第二期工事の相談 | トップページ | 十人十色の仏の子供大会 »

福岡家庭法座~知るべし~

 山崎家の家庭法座。初日は、天神の事務所での法座のあと、しゃぶしゃぶ「あり田」での親睦会。
 2日目は、午前中、山崎先生のご法話があり、午後から,ぼくが担当する。

  ぼくの法話は、このところ法座でテーマにしている「本願が説かれた会座に集った人たち」。つまりどんな雰囲気で、どんな態度で本願が説かれたのか。法座は、ただ説き手だけで成立するのではない。聞き手がなければ、法座は成り立たない。では、その時の聞き手の態度や姿勢はどうなのか。ある意味で、説き手と聞き手の共同作業であることを伝えたかった。

 もう一つは、東海支部と同じ流れで、グループでのディスカッョンと、「唯信抄文意」(異本)をいただいた。

 では、東海支部と同じ雰囲気だったかというと、そうではないのが面白い。顔ぶれが変わると反応が違う。当然、法話のテーマも、座談会の様子も異なってくる。山崎家の家庭法座は、高齢のベテラン組、20代の若手組が同数くらいで、さらに中間の壮年層が加わって、3層に分かれる。何かワークをやる。決して難しいとは思わないことでも、高齢の方に変化のある作業をお願いすると、理解が大変なことが多かった。まだ20歳そこそこの初参加、初聴聞の方(初めなのに、聞く姿勢に驚かされた)の方が、ぼくの意図を組み、積極的に取り組んでくださっていた。そのあたりの一色ではない凸凹具合、凸凹問答が、聞いていて面白かった。

 それでも、さすがはベテランと思わされたこともある。各法座で「唯信抄文意」(異本)を取り上げているが、皆さん、聖人の真摯な姿勢に、虚仮不実の我が身を教えられて、「もう愚の根もでません」とか「参りました。降参しました」といった声が多い。そんな中で、伊藤先生のご縁にあわれた長老の一言は光っていた。

「しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。精進なるこころもなし。解怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらふこころのみ常にして、まことのこころなき身としるべしとなり。」

 と結ばれるが、

 「この『まことのこころなき身としるべし』というところが、大切ですよね。この「知るべし」がないと意味がないですね。」と。

 そうなんです。知るべしなんです。信知するわけです。二種深信でいうならば、機の深信になる。でも、機の深信はそれだけで成り立つのではなく、法の深信と二種一具。法に出会わねば、知ることができない世界。そこを、「信知せよ」と親鸞様は教えてくださっている。普通は、前文のところだけで、「感じる」とか、「思えん」とと言っている。「深く感じた」とか「実感できた」たと喜んでる。そうではないですね。信知らされる世界なんですね。「知るべし」なんです。

 さらっと、この一文に注目されるのは年忌の入った長老。さすがです。

|

« 第二期工事の相談 | トップページ | 十人十色の仏の子供大会 »

法座と聞法」カテゴリの記事