« かすっただけの祇園祭 | トップページ | 今月は、サクランボ食べ放題 »

四十八願のこころ(20)第38願~第39願

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」(第三十八願・衣服随念(えぶくずいねん)の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、わが国(極楽浄土)の天や人々が、衣服をほしいと願えば思いどおりになり、それは仏様の讃えるところのすばらしい衣服が自然と身につくことでしょう。また、裁縫や染め直し、洗濯などをする必要があるようなら、私は決して仏にはなりません。」

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。」
 (第三十九願・常受快楽(じょうじゅけらく)の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、わが国(極楽浄土)の天や人々の受ける楽しみが極まりなく、すべての煩悩を断ち切った羅漢(漏尽比丘)と同じでないようなら、私は決して仏にはなりません。」

 この二願は、第二十七願(万物荘厳)の願いを広げて、浄土に生まれたものが頂くご利益を、きめ細やかに誓われた願いです。

 第三十八願は衣服随念の願。「衣食住」のうち、衣服の心配をなくそうという、生活の悩みに対する身近で細やかな願いです。衣服は、単に寒さや熱を防ぐだけでなく、身を飾るもの。見栄(みば)えがよいとは、見栄(みえ)ですね。衣服は、私の執着の結晶ですが、それを仏様が褒めてくださるというのです。しかも裁縫や洗濯の心配もない。煩わしい家事から解放されるわけです。では、その余った時間で何をするのか。聴聞(自利)を楽しみ、人々の救済(利他)に勤しむのです。

 第三十九願は常受快楽の願です。お浄土は極楽とも言われ、楽が極まった世界。その楽とは、「漏尽」=すべての煩悩を断ち切った状態です。だから、私が求める煩悩一杯の快楽(かいらく)とは、真反対の世界です。『讃仏偈』にも「快楽安穏」とありますが、快楽(けらく)とは、煩悩の炎が消え去れ、穏やかで安らかな、楽の境地なのてす。やはり、聴聞(自利)や衆生済度(利他)を楽しむわけですね。

 お浄土では、ご法につながらないものは、何一つもないのです。

|

« かすっただけの祇園祭 | トップページ | 今月は、サクランボ食べ放題 »

聖典講座」カテゴリの記事