仏教カウンセリングを求めての分かち合い
真宗カウンセリグ研究会の月例会は、「育ち会う人間関係」の輪読を行っている。7月もその予定だったが、「講座・仏教カウンセリングを求めて(2)」ワークショップの直後なので、分かち合いを行い、深める集いに急遽、変更した。会員以外のWS参加者にも呼びかけたところ、参加者の半数近くが集った。WSで感じたこと、もっと深めてみたいこと、また奈倉先生へ疑問やさらに尋ねたいことなどを、それぞれが語り合った。
内観のブチ体験での気づきを詳しく話してくださる方、仏教とカウンセリングの関係について、持論を交えながら尋ねられる方などあって、ぼくも刺激をもらった。
中でも、カウンセリングのエンカウンターグループと、蓮如上人の談合による真宗の信仰座談会との違いを、自らのカウンセリング経験と華光の法座経験を踏まえた方の声が、強く響いてきた。単なる理論としての真宗とカウンセリングの比較ではなく、両者に「私」の身を置き、最初はぼんやりと感じておられたことが、言葉となって浮かび上がってきたものだった。その鋭い感覚に、ぼくも揺さぶれて、思わず、西光先生が定義される真宗カウンセリングの特質の一つである二重関係の構造を踏まえて、ぼくも考える「真宗カウンセリング」について触れさせてもらった。
私の経験を絶対化するのではなく、あくまでも私を超えた「法」(ダルマ)を基盤に置いた、パーソンドセンターアプローチが、真宗カウンセリングの特色である。
ぼく自身も若いころは、カウンセリングよりも浄土真宗の方がより深いという思いが抜けなかった。しかし、援助的な実践体系という点においては、両者に優劣があるのではない。だから、真宗者は、虚心坦懐にカウンセリングにこうべを垂れて学ぶことがなけれは、カウンセリングの本質はつかめない。逆に、カウンセリング経験者も、それを脇においてでも、東洋の救済実践である仏教や真宗のみ教えを、謙虚に聞くことか大切である。もし両者に優劣や深浅をつけたならば、「仮」であるカウンセリングは、「真」である浄土真宗に導くためのあくまでも方便といった、歪んだ真宗カウンセリング理解しか生み出せない。結局、中途半端なカウンセリング理解では、今日の浄土真宗が、本来の浄土真宗への回帰する希有なる機会を失ってしまうだろう。
歴史も、体形も、ゴールも異なる両者が、いかに出会い、統合されていくのか。それは、安易に共通点を並べることでも、ただ違いを強調するだけでもない。そして、真宗カウンセリング研究会で60年近くに渡り、実践され、また理論化されてきている真宗カウンセリングを、いかに世に問うていくのか。課題も多いが、やりがいのある使命でもあると思っている。
妙に小難しいことを書いているようで、申し訳ありません。要は、ある方の発言に、刺激を受けて血が騒いだということです。
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