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2019年7月の22件の記事

福岡家庭法座~知るべし~

 山崎家の家庭法座。初日は、天神の事務所での法座のあと、しゃぶしゃぶ「あり田」での親睦会。
 2日目は、午前中、山崎先生のご法話があり、午後から,ぼくが担当する。

  ぼくの法話は、このところ法座でテーマにしている「本願が説かれた会座に集った人たち」。つまりどんな雰囲気で、どんな態度で本願が説かれたのか。法座は、ただ説き手だけで成立するのではない。聞き手がなければ、法座は成り立たない。では、その時の聞き手の態度や姿勢はどうなのか。ある意味で、説き手と聞き手の共同作業であることを伝えたかった。

 もう一つは、東海支部と同じ流れで、グループでのディスカッョンと、「唯信抄文意」(異本)をいただいた。

 では、東海支部と同じ雰囲気だったかというと、そうではないのが面白い。顔ぶれが変わると反応が違う。当然、法話のテーマも、座談会の様子も異なってくる。山崎家の家庭法座は、高齢のベテラン組、20代の若手組が同数くらいで、さらに中間の壮年層が加わって、3層に分かれる。何かワークをやる。決して難しいとは思わないことでも、高齢の方に変化のある作業をお願いすると、理解が大変なことが多かった。まだ20歳そこそこの初参加、初聴聞の方(初めなのに、聞く姿勢に驚かされた)の方が、ぼくの意図を組み、積極的に取り組んでくださっていた。そのあたりの一色ではない凸凹具合、凸凹問答が、聞いていて面白かった。

 それでも、さすがはベテランと思わされたこともある。各法座で「唯信抄文意」(異本)を取り上げているが、皆さん、聖人の真摯な姿勢に、虚仮不実の我が身を教えられて、「もう愚の根もでません」とか「参りました。降参しました」といった声が多い。そんな中で、伊藤先生のご縁にあわれた長老の一言は光っていた。

「しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。精進なるこころもなし。解怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらふこころのみ常にして、まことのこころなき身としるべしとなり。」

 と結ばれるが、

 「この『まことのこころなき身としるべし』というところが、大切ですよね。この「知るべし」がないと意味がないですね。」と。

 そうなんです。知るべしなんです。信知するわけです。二種深信でいうならば、機の深信になる。でも、機の深信はそれだけで成り立つのではなく、法の深信と二種一具。法に出会わねば、知ることができない世界。そこを、「信知せよ」と親鸞様は教えてくださっている。普通は、前文のところだけで、「感じる」とか、「思えん」とと言っている。「深く感じた」とか「実感できた」たと喜んでる。そうではないですね。信知らされる世界なんですね。「知るべし」なんです。

 さらっと、この一文に注目されるのは年忌の入った長老。さすがです。

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第二期工事の相談

 第二期の外壁保守工事まで、あと1ケ月ほどに迫ってきた。

 仕事の合間を縫って、広島から管理担当のM先生も来館くださる。内装以上に、外壁の保守は、専門家ではないとわからないことばかりである。ぼくが口ださせるのは、外壁の色をどうするのかといった程度で、工法や作業手順は、専門家同志の話し合いになる。

 3人で館内と、屋上や会館の回りを巡回して、補修部分を確認する。看板はどうするのか?  ベランダーはどうするのか?  外壁の色は? 手すりは?  屋上の工法は?エレベーター屋の色は? 等々、細々とあった。

 そして、内装と違って、近隣へのご挨拶やお願いもあるので、これは8月のお盆が終わってから回ることになった。
 それよりも一番の心配は工期の気温や天候である。9月はまだ残暑厳しいが、エアコンが外されるからだ。そして、台風の心配も大きい。前回(13年前)は、まったく同じ工期だったが、台風も暑さも心配することはなかったのは、どうしてなのだろうか。

 ところで、M先生が、取り壊し前の旧会館の写真を持参された。外部だけでなく、内部の写真もある。24年前のこと。30年以上住みつづけていたのに、「どこの部屋?」と考えるとこもあった。

    忘れていることに愕然とした。

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東海支部の平日法座

 年に1度、平日に法座が開かれる。

 東海支部の参加者は、壮年層、しかも男性が中心だ。自営業の方も主婦の方もおられるが、ほとんどがお勤めの方である。それでも有給をとったり、仕事をやりくりしてお参りくださった。今年は、「壮年の集い」の直後ということもあって、お参りは多くはなかったが、平日ならばと参詣くださった方もある。

 法座の進行に工夫をしてみた。

 まず7名グループに分けて、「自分の善い・良い・好きなところ」を述べてもらい、また人から「あなたの善い・良い・好きなところ」を返してもらう。そのあとで、自分は、「善人」か「悪人」か、それとも「やや善人」か「やや悪人」か、または「どちらでもない」の選択してもらって、その理由を語り合ってもらうというものだ。自己を通すことで、単なる正解を語り合うのではなく、自分に引き寄せて問題を考えてもらいたかった。

 やはり、「善悪」の基準ということが問題になってきた。当然である。日頃、私たちは、自分の基準にした「善し・悪し」に縛られ、そして同時に、それに悩まされて迷っているからである。

 では、親鸞様はどうお示しくださったのか。先の広島支部法座でも取り上げた「唯信抄文意」(異本)をいただいた。これは、善導様が示された「至誠心」(つまり真実心)についての、親鸞様、独自の見解である。親鸞様のすごいところは、己を棚上げされないことである。あくまでも、真実は「法」(阿弥陀様)の側であって、そこから自分自身を偽らず、飾らずに頂かれていることだ。

 仏教での「善悪」は、仏様が最高善、仏になる行為を「善」としている。だから、善導様は、外も内も、真実であれ、まことであれ(またそうしようと徹底された)て、仏道を歩めと仰った。しかし、親鸞様は、その仏道に向かっている自己の欺瞞を徹底的に問題にされている。そして、内に虚仮を抱いているものの内実を、容赦なく暴かれていく。偉そうに善悪を語っているが、その実態は、虚仮であり、虚しく迷っているというのである。つまり、賢人どころか愚者であり、善人ところか悪人であり、精進どころか解怠のかたまりであり、結局、虚仮=虚しさしかないというのである。迷いそのものの我が身が浮かびあがる。そこを「知るべし」、つまり「信知せよ」という仰せになった。真実の南無阿弥陀仏に出会わねば、知られることのない世界である。南無阿弥陀仏 

 

 

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仏教カウンセリングを求めての分かち合い

  真宗カウンセリグ研究会の月例会は、「育ち会う人間関係」の輪読を行っている。7月もその予定だったが、「講座・仏教カウンセリングを求めて(2)」ワークショップの直後なので、分かち合いを行い、深める集いに急遽、変更した。会員以外のWS参加者にも呼びかけたところ、参加者の半数近くが集った。WSで感じたこと、もっと深めてみたいこと、また奈倉先生へ疑問やさらに尋ねたいことなどを、それぞれが語り合った。

 内観のブチ体験での気づきを詳しく話してくださる方、仏教とカウンセリングの関係について、持論を交えながら尋ねられる方などあって、ぼくも刺激をもらった。

 中でも、カウンセリングのエンカウンターグループと、蓮如上人の談合による真宗の信仰座談会との違いを、自らのカウンセリング経験と華光の法座経験を踏まえた方の声が、強く響いてきた。単なる理論としての真宗とカウンセリングの比較ではなく、両者に「私」の身を置き、最初はぼんやりと感じておられたことが、言葉となって浮かび上がってきたものだった。その鋭い感覚に、ぼくも揺さぶれて、思わず、西光先生が定義される真宗カウンセリングの特質の一つである二重関係の構造を踏まえて、ぼくも考える「真宗カウンセリング」について触れさせてもらった。

    私の経験を絶対化するのではなく、あくまでも私を超えた「法」(ダルマ)を基盤に置いた、パーソンドセンターアプローチが、真宗カウンセリングの特色である。

 ぼく自身も若いころは、カウンセリングよりも浄土真宗の方がより深いという思いが抜けなかった。しかし、援助的な実践体系という点においては、両者に優劣があるのではない。だから、真宗者は、虚心坦懐にカウンセリングにこうべを垂れて学ぶことがなけれは、カウンセリングの本質はつかめない。逆に、カウンセリング経験者も、それを脇においてでも、東洋の救済実践である仏教や真宗のみ教えを、謙虚に聞くことか大切である。もし両者に優劣や深浅をつけたならば、「仮」であるカウンセリングは、「真」である浄土真宗に導くためのあくまでも方便といった、歪んだ真宗カウンセリング理解しか生み出せない。結局、中途半端なカウンセリング理解では、今日の浄土真宗が、本来の浄土真宗への回帰する希有なる機会を失ってしまうだろう。

 歴史も、体形も、ゴールも異なる両者が、いかに出会い、統合されていくのか。それは、安易に共通点を並べることでも、ただ違いを強調するだけでもない。そして、真宗カウンセリング研究会で60年近くに渡り、実践され、また理論化されてきている真宗カウンセリングを、いかに世に問うていくのか。課題も多いが、やりがいのある使命でもあると思っている。

 妙に小難しいことを書いているようで、申し訳ありません。要は、ある方の発言に、刺激を受けて血が騒いだということです。

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新機軸の壮年の集い

 今年の「壮年の集い」は、新機軸での開催。なによりも楽しかった。そして、いろいろな意味で、新鮮で、印象に残る集いだった。

 まず、幹事のひとり(副)が若返った。これはもうお一人(正)の方のご意向。華光の「壮年」は35歳からだが、次代を担う世代を巻き込もうという作戦である。それをこころよく引き受け、さらにこれまでにない企画を考えてくださった。さすがに新しい風は新鮮だった。実現したものも、実現しなかったものもあったが、法話-分級座談会、内容も決まったパターンという形式を打破して、参加者も共に法座を創造していこうという意味では、いい企画だった。ご講師も、初めての方。法話を最初するのてはなく、テーマに沿った少人数での話し合いがたっぷりあって、最後にまとめの法話をいただくという形式だった。いわゆる「連研」式であるが、形式よりも中身は濃密で、意義深かったとおもった。

 もちろん初めてということで、課題は残った。ある勧学の少し断定的な文章を読む話し合うたのだが、中には批判的な話し合いで終始したところもあったようだ。果たして、これが適切だったのか。またその意図がみんなに浸透していたのか。せっかくの新しいご講師だったので、もっとその方に出でもらてもよかったのではないか。課題もあった。

 2日目の午前中は、ぼくもその形式を受けて、自分を開いて話し合うというテーマを選んだ。皆さん、いきいきと楽しそうにしておられたのは事実である。ただ質問・話し合い事項が多くて、最後にまとまった法話はできなかった。「批判しない」といっていると、軽口でそれをやって(当事者は気付かず)、傷付いたという声も聞こえてきた。それよりも、しっかり法話が聞きたかったという声もあったのも、確かだ。

 いろいろと課題は残ったが、新鮮でよかったという声が多かった。おまかせではなく、自分たちが法座を創造していくという点でも、くさびが打たれたのである。もちろん法座を創造していこうという観点かみれば、もう一つ前段階から、壮年の皆さんで創っていく必要がある。ある方からの依存を脱していくことは、来年の宿題になった。

 お昼からの座談会、ぼくにはたいへん印象深いやりとりがあったが、ここに詳しく記載することはできないが、これもまた新機軸で行った成果であろう。

 もちろん第一回からの参加者が、卒業となたのも寂しくも、年齢制限のある壮年の集いの厳しさと、意義である。

 新しいことをやるといろいろな声ができるのは当たり前。後は、それを如何に吸収し、次回に生かすかである。真価が問われるのは、来年の集いである。そて、どんな成長を遂げるのか。いまから、次回が楽しみである。

 

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今月は、サクランボ食べ放題

 今月は、サクランボ食べ放題である。

 例年のようにアメリカのKさんからアメリカンチュリーを送ってくださった。高価なものをたくさん頂いたので、事務所やお手伝いの皆様におすそ分をさせてもらった。ありがとうございました。
 その翌々日、連れ合いの実家から、今年採れたてのサクランボが届いた。今度は、聖典講座でも皆さんにも楽しんでもらった。
 おかげで、しばらく日米のチェリーの食べ比べを楽しむ日々が続いた。その間、連れ合いは、公演のためにしばらく留守だったが、帰宅したころに、また北海道から第二弾のサクランボが送られてきた。今度は、「日曜礼拝で、子供たちに食べてもらってください」とのことである。

 第一弾は、「佐藤錦」という品種だったが、第二弾は、「南陽」と「サミット」の2種類が入っていた。佐藤錦より少し大粒のものである。
 今度は、荻原果樹園内でのサクランボの食べ比べである。こうして、連日のサクランボ大会が続いたが、それも終わりというところで、第三弾が届いた。最後の「南陽」である。季節的にはもうギリギリのところだったが、うまい具合に壮年の集いに届いたので、皆さんにも食べていただけた。

 義父も高齢となり、体調の心配もあって、年々、これで最後の思いがあるのかもしれない。

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 結局、ほぼ7月中、途切れることなく、高価なサクランボ食べ放題が続いている。好物で、有り難いのであるが、連日続くと、他の果物が恋しくなる。贅沢な話である。

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四十八願のこころ(20)第38願~第39願

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」(第三十八願・衣服随念(えぶくずいねん)の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、わが国(極楽浄土)の天や人々が、衣服をほしいと願えば思いどおりになり、それは仏様の讃えるところのすばらしい衣服が自然と身につくことでしょう。また、裁縫や染め直し、洗濯などをする必要があるようなら、私は決して仏にはなりません。」

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。」
 (第三十九願・常受快楽(じょうじゅけらく)の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、わが国(極楽浄土)の天や人々の受ける楽しみが極まりなく、すべての煩悩を断ち切った羅漢(漏尽比丘)と同じでないようなら、私は決して仏にはなりません。」

 この二願は、第二十七願(万物荘厳)の願いを広げて、浄土に生まれたものが頂くご利益を、きめ細やかに誓われた願いです。

 第三十八願は衣服随念の願。「衣食住」のうち、衣服の心配をなくそうという、生活の悩みに対する身近で細やかな願いです。衣服は、単に寒さや熱を防ぐだけでなく、身を飾るもの。見栄(みば)えがよいとは、見栄(みえ)ですね。衣服は、私の執着の結晶ですが、それを仏様が褒めてくださるというのです。しかも裁縫や洗濯の心配もない。煩わしい家事から解放されるわけです。では、その余った時間で何をするのか。聴聞(自利)を楽しみ、人々の救済(利他)に勤しむのです。

 第三十九願は常受快楽の願です。お浄土は極楽とも言われ、楽が極まった世界。その楽とは、「漏尽」=すべての煩悩を断ち切った状態です。だから、私が求める煩悩一杯の快楽(かいらく)とは、真反対の世界です。『讃仏偈』にも「快楽安穏」とありますが、快楽(けらく)とは、煩悩の炎が消え去れ、穏やかで安らかな、楽の境地なのてす。やはり、聴聞(自利)や衆生済度(利他)を楽しむわけですね。

 お浄土では、ご法につながらないものは、何一つもないのです。

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かすっただけの祇園祭

Img_2607_2_20190727001901  佛教大学四条センターは、四条烏丸の南東角の三井ビルの中に教室がある。

四条烏丸の歩行者信号が、ずっと赤になったままで、変わらない。警察官が交通整理をしていた。

Img_2606_20190727001901 ちょうど山鉾の曳き初めに重なっているらしい。遠くからぼんやりと眺めていた。信号が変わったところで、ビルの前で、 長刀鉾のお稚児さんのビルの一行とすれ違った。山鉾の上から見下ろしので、祭りの期間は正五位という官位を授かるというのだ。

今年は連れ合いが寝込んでいたこともあって、宵山にも、巡行にも行くことはなかった。
前祭の後、映画館を出たら、山鉾を解体しているところには出くわした。今年の祇園祭は、その程度で触れただけで終わった。

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3連続法座(3)京都法座法座

 3連休、3日続けてのご法座の最後は、京都支部法座。華光会館での法話会である。先日の仏教カウンセリングのご縁から初参加の方、何年かぶりの方、病気を押しての参加者など、なかなか賑やかな顔ぶれだった。

 法座は、参詣者の皆さんと共に作り上げるものである。それは、法話でも同じ。
 仏説と呼ばれるお経様は、六事成就して始めて経典と認められる。すなわち、信・聞・時・主(仏)・所・衆の六事である。最初の「信」と「聞」は、「如是我聞」とか「我聞如是」と始まる。我は阿難尊者で、かくの如く聞きたまえりで、聞いたありののままに述べるという言葉から始まっている。そのあとは、今日の議事録と同じで、時(いつ)、主(誰が・仏)、所(どこで)、そして聴衆(参詣者はどれか)と続く。これが会座の必須修条件なのである。
 ただ説法主である釈尊だけではなく、その場に聴衆が集っている。説き手だけでなく聞き手もそろって、法座が成り立つのである。そのとき、ただ集まってくるだけではない。その時のの聞き手の態度、姿勢こそが、法座にも、法話にも強く影響を及ぼすことになるのだ。

 弥陀の本願が説かれた『大無量寿経』の場合は、教団の上首の仏弟子の名前が列挙され、合計一万二千人のお弟子が集ったと記載される。そこに加えて、普賢・文殊・弥勒の有名スター菩薩三名に加えて、十五名の大士(在家の菩薩)の名前が列挙されている。以下、個々ではないが、菩薩方がいかなる御方であるのか。その特徴、そしてそのお徳が、しばらく述べられていく。

 詳しくは述べないが、皆様、普賢の徳、すなわら利他の行を実践されている菩薩方である。その最後に、その菩薩方の自利の面、そして利他のお働きが詳しく述べられている。その利他のところ頂いた。詳しくは、華光誌の聖教の心を読んでいただきたい。結論だけいうならば、頼みもしないのに、孤独の私の友なり、その重荷を背負って共に歩いてくださり、こちらが願ってもいないのに、我がことのように、私に弥陀の他力回向の教えが聞けるような環境を整えて、それを教えてくださるのである。それは、まるで慈悲深い子供が親に使えるような姿勢だというのである。もう阿弥陀様のお心そのままである。皆様、還相の菩薩方なのだが、それは当たり前のことではある。

 そのような利他の精神に溢れた聴衆が集った法座で、お釈迦様は、阿弥陀様のご本願を説いてくださるのてある。

 さて、今日のお集りの皆様は、どんな姿勢、態度で、この法座に臨んでおられますか?

 

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3連続法座(2)広島法座In安芸高田市

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  輪読の法座の翌日は、広島支部法座。 年に1度の安芸高田市での家庭法座である。7月のこの梅雨の時期に開かれる。緑豊かで、心地よい風が吹きつける。昨年は猛暑だったが、今年は上着を着ていても、肌寒つほどの梅雨寒だが、気分はいい。 お庭の蓮も、今年はきれいに咲いていた。 

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 ご法話は、「浄土真宗」の宗名を頂くことから始めた。皆さんの問いかけの答えも面白かったが、その内容は省略する。ただここでは、その中のに「真」の一文字が尊いことをいただいた。先の「聖典講座」で、『観経』の三心の一つ「至誠心」を取り上げたが、そこで「真実」と「虚仮」の姿を「唯信抄文意」(異広本)を通して味わった。

 一般の辞典には「虚仮」の用語はないが、「広辞苑」には仏教用語として掲載されている。「内心と外相がちがうこと。真実でないこと」とあって、『歎異抄』を引用して、「ひとへに賢善精進の相をほかにしてめして、うちには虚仮をいただけるのか」の用例が出されている。

 親鸞様は、私は、外面を飾って賢善精進の姿を示すが、私の内面は、煩悩に満ちて、虚仮不実であると仰った。「虚」とは、「むなしくて、実でないこと」。「仮」とは、「かりで、真でないこと」。むなしいとは、「虚しい」とか「空しい」と書くが、要は、実がなく、空っぽ。中身ない外面だけの張りぼての姿をれしている。もし口篇に「虚」を書くと、「嘘」となる。ウソとは、口がむなしく、虚であり、実がないことである。逆に、実(み)があることは、充実していて、そしてまたそれが「真」まことでもあるである。こと真の反対は、「僞」であるが、ここでは「仮」を当てている。

 この「むなしい」ということころをいろいろと味わった。ご和讃もにあるが、もし本願力に出会うことがなければ、この空虚な生涯を終えまたぞろ迷いを繰り返していかねなばならない。この迷いの私の姿こそが、真のない、虚しい、虚仮の姿にほかならないのである。

 仏法の真実に出会うということは、この「虚仮不実」の自分に出会うことでもある。なぜか。中身のない私、まことの心のかけらもない私に、阿弥陀様が、一方的にまことをご回向してくださるからである。空虚だかちこそ、南無阿弥陀仏が満ち満ち、「南無阿弥陀仏」と響き渡るのではないか。私が真実になるのではなく、真実の方か、虚仮を満たしてくださるのである。

「無漸無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
 弥陀回向の御名なれば 功徳は十方に満ちてもう」

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3連続法座(1)華光誌輪読法座

3連休は、3日続けてのご法座があった。

 13日(土)が、「華光誌輪読法座」。

 14日(日)は、「広島家庭法座」で、安芸高田市へ。

 15日(月)海の日の祝日は、、華光会館での「京都支部法座」と続いた。

 まずは、華光誌輪読法座。毛利師の巻頭言を「念仏の道場」を読む。みんなで声に出して一読し、段落毎に区切って読んで、語句の説明をしたり、質問を受ける。それから格段毎の分かち合いを行い、そして最後に、もう一度最初から通して声に出して読んだ。

 伊藤先生の精神をいかに自分に消化し、またそれを現在に発揮していけるのか。冒頭に、「伊藤康善先生は、「一国一城の主としての念仏者の育成」を、終生の目標にされていたと言われる。私はそんな念仏者にたまたま憧れの念を抱き、自他共にそう成れるような道、「念仏の道場」を暗中模索している」と、あるように、筆者自身が、理想とする目標に向かう姿が、有り難かった。

 また伊藤先生の常の仰せといわれる、「ボクらの信仰運動には、会長もなければ会則もない。去る者は追わず、来るものは拒まず」「強いて会長をもとむれば、会長は釈尊であり、十方諸仏が顧問、浄土三部経が会則だ」。
 そこから、「会則」の浄土三部経の中から、「阿弥陀経」で、「会長」である釈尊の仰せ、そして「顧問」である十方諸仏が一丸となって、弥陀の本願をお勧めくだりを取り上げられている。そして、最後は、やはり伊藤先生の言葉である「たとえむずかしくても、直接に原典を読め。そして、私自身の信仰体験こそ、その註釈、解説であると心得よ」から、念仏道場のカギを見いだして、身をもって、證明していきたいとの力づらいことばで終わっているのである。南無阿弥陀仏

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今週の学びと映画

  さて、今週の学びである。今週といっても8日(月)~12日(金)の5日間。

  講義は、金曜日の1コマだけ。佛教大学四条センターでの「ブッダの生涯から見た仏教」の4回目で、「瞑想と苦行」。『ブッダチャリタ』を中心に、釈尊の成道に至るまでの修行を、伝統的インド世界との闘いとのしてとらえたもの。ただ、話されるエピソードが、毎回、聞かせて頂いてることの復習の要素が強くなってきて、ちょっともういいかなーというのが正直の実感。

  映画は、5日間で5本見た。先週同様、京都シネマで3本、シネコンで2本という構成。そのうち1本は邦画で、4本はヨーロッパの作。先週ほどの大あたりはなかったが、佳作が多かった。

 イタリア映画『家族にサルーテ!』は、1日だけなら表面は、取り繕っていても、予期せぬ嵐で島に取り残されて、3日間も寝食を共にすることとなった一族が、それぞれの問題が噴出する。もともと隠していたものが、嵐によって暴かれて来る。ただ、短時間に登場人物が多い群像劇で、人物把握に混乱してしんどかった。ここもまた混沌状態、カウスを味わう要素なのか。そして、嵐が収まり、スカイブルーが拡がる。ここを機縁に、それぞれの人生に何かが生まれて来るのか。

   フランス映画『アマンダと僕』は、突然の大切な人を亡くした喪失感と、つながりを扱ったなかなかの佳作。子役が自然体でうまい。

 ベルギー映画の『ガール』girlは、LGBTの映画で、Tのトランスジェンダー。体は男の子として生まれた「女の子」が、バレエの世界で、夢を実現しようというお話。前に『荒野にて』と同じく、彼女の孤独が浮き彫りになる。からだとこころの不一致は、つらいだろうなー。しかし、男で一つで育てる父親が応援し、また医療や福祉のサポートが整っているのは、日本より先進的である。それにしてこの辛さ、切なさはなんだ。

 17世紀のオランダが舞台の『チューリップ・フィーバー』

 そして邦画は、篠原涼子主演の『今日も嫌がらせ弁当』 は、お気軽に楽しめる1本。

という感じの5日間。

 

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今年もピアノの調律に

  今年もピアノの調律のためだけに、兵庫県からWさんがおいでくださった。

 毎年、欠かさずの恒例行事であるが、交通費も含めて、すべてボランティアである。
 
    お母様が強信な念仏者だった。華光でも、1、2を争うほどの強く機を勧められる名物同人でもあった。ご本人も、華光会館に下宿し、子供大会や仏青で聴聞されている。子供会から60年以上もご縁の続くが、今は、聞法聴聞としては、疎遠になっておられる。しかし、大きなご恩徳を受けたからと、華光会館にあるピアノを寄贈してくださり、毎年、毎年、欠かさずにおいでくださるのである。

 例年は5月だが、内装工事を考量して、時期をづらしてくださった。今年は、大きくは移動はしなかったが。工事で研修場内で、ピアノを動かしている。そのためか、例年以上に狂いがあったというのだ。表には見えないし、素人が聞いても分からないが、プロはさすがである。

 このような、外護の善知識のおかげで、私たちの念仏道場は護られている。南無阿弥陀仏

 

 

 

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7月の聖典講座~至誠心(2)

  では、至誠心とは何か。

 善導様は、至誠心とは、真実心のことであり、浄土の行の実践は、衆生の身での行い、口での言葉、心に思うこと、三業のすべてが、お浄土に相応しい真実心でなさねばならない。しかそれは、外面だけが「賢善精進」を装っていても、もし内心に嘘や偽りを懐いていてはいけない。外面の修行ではなく、その内面も真実であり、外と内が一致しているのである。もし、外面は頑張って修行していても、その内に愛欲や憎悪の心、よこしま、偽りの心が満ち満ちた心で、いくら行じても、すべて「雑毒の善」(毒の交じった)「虚仮の行」(中身のない虚ろで仮もの)である。たとえ頭に付いた火を払うほど必死で、終日、命懸けでなしたとしても、毒の交じった善をどれだけ振り向けても、決して、お浄土(真実報土)に生まれることはできないのである。
 なぜなら、お浄土とは、愛欲や憎悪といって煩悩が消滅した、清らかな涅槃界である。そのお浄土を建立される時の法蔵菩薩が行を行われ時、身も、口も、心も、一刹那も、真実心がかけたことがなかった。そんな世界に生まれるのだから、法蔵菩薩のなされたような真実心で、自利・利他の実践をなしなさいと。

 しかし、実際、真実に近づけば近づくほど、真実に背く自己が露わになってくる。そこを開きなおるのではなく、ひたすら懺悔(仏や修行僧の前で、罪を告白し、悔い改める誓い)するしかない。善導様自身も、毎日、自身に厳しい懺悔を繰り返されたという。それが三品の懺悔(『往生礼讃』)と示されている。
上品懺悔-(1)全身の毛孔から血の汗を流し、
              (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
中品懺悔-(1)全身の毛孔から熱き汗を流し、
                (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
下品懺悔-(1)全身が熱くなり、      
              (2)眼より涙を流して、懺悔する。
ちなみに、親鸞様は、
「真心徹到するひとは  金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと ひとしと宗祖はのたまへり」(高僧和讃)
と和讃されている。

 結局、真実に近づくほどに、凡夫に真実心は起こせず、煩悩具足の自覚が深まることになる。そのことが、次の「深心」-二種深信の「機の深信」と「法の深信」や、「回向発願心」に説かれる「二河譬」で絶え間なく渦巻く「火の河」「水の河」の譬えと、その間に生まれる白道にもつながっていくのだろう。

 その善導様のお心を受けて、自力で起こす真実心ではなく、他力で賜わる真実心とみられたのが親鸞聖人の立場である。
 親鸞様は、『観経』には「隠顕」-経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場であると頂かれたが、この三心にも隠顕」(自力の立場と他力の立場)があり、「隠彰」(内面に隠されたの他力のお心)から、善導様の真意を明かにするために、そのお言葉を、漢文を読みかえてまで、大胆に他力回向の立場を明かにしてくださったを、善導様の「散善義」と、親鸞様「信巻」を通じて窺った。
 一例だけをあげて結びとする。

、「不得外現賢善精進之相、内懐虚仮」
 善導様は、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
 (外面も真実、内面も真実であれ)

 親鸞様は、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」
 (内面が虚仮なのだがら、外面も偽善者ぶるな)
               
、「凡所施為趣求亦皆真実」
 善導様「おおよそ施為、趣求するところ、またみな真実なり」
 (施為=施すこと、利他)(趣求=浄土を求め趣く、自利)
 (法蔵菩薩のように自利・利他の真実の修行をなせという意)

 親鸞様「おおよそ施したまうところに趣求をなす、またみな真実あり」
 (如来より施したまう真実(南無阿弥陀仏)を賜わり、浄土に趣き向かうことが、真実心であるの意)

 私には、至誠心のかけられもなく、虚仮不実であることを信知させられて、自力の心を捨てて、如来より賜わる真実そのもの、すなわち南無阿弥陀仏をたのむことこそが、他力の至誠心なのだ、真意を明かにしてくださったのである。                                     

 8月は夏休みです。
 次回は9月1日(日)です。「深心」に入ります。二種深信、四重の破人など、安心上の最も重要な箇所であります。お楽しみに! 

 

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7月の聖典講座~至誠心(1)

「講座仏教カウンセリング求めて」のWSの翌日は、聖典講座である。
 『観経』も「定善十三観」(息慮凝心-精神統一をし、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法)が終わり、前回は、「散善三観」(三福九品・精神統一が出来ない者への廃悪修善(悪を廃し善を修める)の行)を概観した。今回から、その詳細の内容に入っていく。まず上輩段である。ところが、この最初の「上品上生」の冒頭に三心(至誠心、深心、回向発願心)が説かれている。サラッと説明すれば、すぐに終わる。詳しいと全体を見失う可能性もある。迷ったが、ここは真宗安心の最要点の一つなので、避けて通るわけにもいかない。ただし呑みすぎた頭では無理だったので、講座の当日5時半起きをして、レジュメを作った。結局、3回で、三心(至誠心、深心、回向発願心)を取り上げることにした。今月は「至誠心」である。

 一応、冒頭の部分を書き下し文で示しておこう。

「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらかを三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。」

 お釈迦様は、散善九品を説く冒頭で、三種の心を示された。
 一、至誠心(「至」は最高、真。「誠」は、嘘、ごまかしのない心。真実心のこと)
 二、深 心(深く信じる心。深いとは、浅薄ではなく、決定的である決定心のこと)
 三、回向発願心(「回向」の「回」とはめぐらすこと、「向」はさし向けること。 自らの善根をふりむけること。「発願」とは、浄土往生を願う心を起こすことである。当面の意味では、自らの成した善をふりむけて、浄土への往生したいと願うことになる。それを他力のお心でいただくと、阿弥陀様より回向(ふりむけてくださった)された功徳を頂き、必ず、浄土往生できることを喜ぶ心となる。)
の三種の心を発こせば、往生できると述べらたのだ。
 
 行や善をなすにしても、どのような心持ち、どんな心を起こして行うのかを、三心という形で述べられたのだが、肝心の『観経』には、三心が示されるだけで、それがいかなるものかは、まったく説明がないのだ。それを詳細にご教示くださったのも、善導大師である。ここでも「善導独明仏正意」(善導様お独りだけが、仏様の正しいお心を明かにしてくださった)なのである。
 
 例えば、聖道の祖師が、これは上品上生に説かれるので、最も上位の善人だけが、自分の心を修練して往生できるものだと解釈(修心往生)されたのに対して、善導様は、上々品にのみ説かれているが、以下のところでは省略されているのであって、九品すべてに通じ、また定善にも通じ、さらに本願念仏にも通じるのだとされた。
 三福散善-「三福行」を往生行とする自力の三心
 定善観法-「観念行」を往生行とする自力の三心
 本願念仏-「本願念仏」を往生行とする他力の三心
しかも、この三心が往生の正因(三心正因)だと頂かれちる。

  さて、至誠心の入る前に、本文にある「即便往生」についてである。ここは、親鸞様の御心が深い。
 親鸞様は、善導様のお心持ちをさらに深く受け、『観経』には「隠顕」があると頂かれている。経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場である。この三心にも、自力と他力の立場があるのであるが、当然、その果報にも自力と他力の別あると頂かれたのである。すなわら、「即便往生」の即便とは、本来は二文字で「すなわち」と読むのだが、親鸞様は「即往生」を他力、「便往生」を自力、との二つに分けて解釈されているのだ。『愚禿鈔』のご指南によると以下の通りだ。

 即往生-他力の三心による真実報土への往生。第十八願の「即得往生」(本願成就文)
 便往生-自力の三心による方便化土への往生。第十九願の「方便往生」(第十九願成就文「便於七宝華中」とある)(続く)

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お誘い

 今回のカウンセリグの集いも、企画だけでなく、チラシを造り、またお声かけも頑張って行った。

  お誘いは、真カ研の会員だけでなく、華光会の皆さん、さらに仏教大学ビハーラ研究会などにも出席して、チラシを配った。ご縁が浅く難しいと思っていたビハーラ研究会を縁に、3名も参加くださったので、驚いた。一方で、真カ研のベテラン常連組が距離を置かれたのは、残念だ。もっと、華光の方に参加してもらいたかったが、家庭などに問題を抱えておられる方にお声をかけるも、不発に終わった。それでも、ご縁の新しい方が、積極的に参加くださったのがうれしかった。このあたりも、自分のはからいを超えていた。

 他に、今年は、カウンセリングや仏教関係の方だけでなく、自力整体の知人、小・中学校の同級生にも声をかけてみた。それも、数日前で、かなり難しいとは思っていたが、ダメもとである。5月の連れ合いの演劇をお誘いしたことが、縁にもなっていた。

 なかなか返事がこない。これまで、仏教に関するお誘いを控えていた関係なので、先方も戸惑われていたようだ。ところが、ここから3名も参加くださったのは、とてもうれしかった。なんのことはない。自分で、勝手に垣根を作っていただけのことである。「仏教のことは何も知らなけど、難しくないかなー」といった不安は持たれながらも、それぞれが興味や関心をもっておられることが、よく分かった。選ばれるのは先方なのだから、情報として提供するだけでも、意味があるのだ。

 その中で、とても不思議で、有り難いこともあった。まさにご縁の不思議である。

 10年来の自力整体での知り合いの方。今は、整体はお休み中だが、お声をかけてみた。

 地元、九州で働いておられたが、縁あって京都に出るか迷っていたときに、相談した病院の先生から背中を押されたという。そして、「もし京都で困ったことがあったら、奈倉先生を訪ねなさい」と、紹介状を書いてくださったのである。その後、彼女は奈倉先生を訪ねるような困難なことはなく、一度、先生の講演会を聞いた程度で、20年が過ぎ去ったというのである。そこへ、今回のお誘いである。ご講師の紹介で、先生のお人柄などにも触れて、ぜひ、お会いになってみて下さい、と案内あ届いたのだ。

 今回、長い歳月を経て、先生との出会いとなったわけである。ご紹介くださった先生は、奈倉先生の学生時代の同級生で、長年の親友だということで、先生もとても懐かしく、驚いておられた。

 ぼくも、その紹介の名刺を見せてもらったが、小さな名刺に20年間の重みが感じられた。ほんとうに縁とは、不思議なつながりである。
 もし、5月の連れ合いの公演がお誘いしなければ、彼女に声をかけることもなかった。お互い知らないだけで、つながっていないものはないということである。
 

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「講座仏教カウンセリングを求めて」(2)体験学習篇

  体験学習は、主に三つだった。

 一つは、「蓮如上人の談合とエンカウンター・グループ」と題して、参加者が対等であり、各自が誠実にあろうとつとめながら、あくまで模擬で、時間的には20分程度だったが、これはこれで面白かった。見ず知らずの人の中で、いきなり心を開くことは難しいが、各自か、自己自身に正直で、誠実であろうと勤めて、また互いに尊重しあい、攻撃や批判ではなく、自由に語り合う事ができるのなら、それだけでもいきいきとした集いとなる。普段の会合で、参加者が、互いが誠実であろう、尊重しようという思いを心をがけている集いは、まずない。その意味では、いかなる集いであっても、これは率直に学ばせてもらいたい。法座での座談会でもそうだ。常に、自己に率直に、また誠実に臨みたいと思った。

 もう一つは、ブチ内観を体験。期間を区切って
 「1)母親にしてもらったこと、2)して返したこと、3)迷惑をかけたこと」の三点を内観した。
  不思議と、ある日常のごくごく普通の場面が、具体的なイメージで甦ってきたのが、面白かった。忘れているだけで、体験したことはすべて残っているということだろう。有り難いというより、業の恐ろしさを感じた。結局、自分の分かる範囲だけで、内省したり、有り難かっても、所詮、氷山の一角にすぎない。忘却していても、業の厳粛な道理を思うと、恐ろしくもなった。このことは、またどこかで書きたいと思う。

 最後は、「来談者に寄り添って傾聴させていただくロールプレイ」である。3名組の、如是我聞ゲームである。お相手は、ベテランカウンセラーのH先生だったのも、ぼくにとってはよかった。もうお一人は、先日、ビーハラ研究会で立ち話からお誘いした方。ほぼ初めての方と組ませてもらっえたのも、尊いご縁だった。

 ワーク終了後の懇親会も、時間を忘れるほど盛り上がった。ただ、呑み助に挟まれて、ぼくのピッチもいつもより早かった。とにかく心を開き、豊かに触れ合った、楽しい集いでした。

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「講座仏教カウンセリングを求めて」(2)講義篇

 真宗カウンセリング研究会の主催で、奈倉道隆先生をお迎えして「講座仏教カウンセリングを求めて」(2)を開催した。(2)とあるのは、昨年大好評で、今年も同じタイトルでの連続開催となったからだ。それで、大きなテーマや内容は、ほぼ昨年と同じだったので、続編というよりも、再編に近い感じもした。継続者もあったが、初参加の方が多かった。昨年は27名、今年は24名。いまの研究会の規模としては、参加者も多く、盛会だった。

 事前に予備学習も行い、レジュメも、2校、3校と重ねてくださった。短時間(4時間)で、講座と体験学習を2本立てがあって、盛り沢山だ。講義を挟んで、模擬エンカウンター、ミニ内観、最後に3人組でのロールプレイという流れだ。

 まずは、講義篇である。

 「仏教カウンセリングの特色」と題した講義。西洋と東洋の違い、佛教の「苦」の理解、さらには仏教の旗印である三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂滅」を正しく捉えること。つまり、仏教は、原因よりも「縁起」、すなわち関係性を重視するということ。つまり、教える側も教えられる側にもなる。つまり話し手が、次には聞き手になり、固定化された関係はないし、「私」というのも縁によってあるので、実態はない。にもかかわらず、無常とも、無我とも分からずに、物事に執着していく、自我中心性こそが苦の根源となるのである。そこから、真に「調和」のとれた世界(涅槃)こそが、苦からの解放へと誘うというのである。
 さらに聖道門の仏教と、浄土門の仏教(浄土教)があるが、浄土教せは阿弥陀仏の本願に出会っていく道であり、願われていくいのちでるあことを自覚し、この自覚を高めるために、聴聞があるという。カウンセリングでは傾聴を大切にし、共に「願われたいのち」であることを信じて向き合う。共に阿弥陀に願われた命であるという思いをベースに寄り添うことが、御同朋の精神であり、仏教カウンセリングの根底にあるものだというふうに窺った。

 他にも、1)藤田清先生の「仏教カウンセリング」、2)森田正馬博士の森田療法、3)吉本伊信師の「内観」についてのお話を頂き、内観の体験学習を行い、最後に、来談者に寄り添う傾聴のワークを行った。

 浄土真宗の信心の理解、カウンセリングについての見解なども、ぼくとは味わいが異なるところもあった。そのことはいずれ言葉にしたいが、今年も学ぶことの多い集いとなったのは、確かである。

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今週の多彩な学び

  学びという意味では、充実した一週間だった。
 
  3日連続(2、3、4日)で、仏教講座を受講し、仏教講演を聴講した。週末(6日)には、仏教カウンセリングWSにも参加する。

 一つ目の講義は、永観律師の『往生拾因』の講読の3回目。第一章の念仏を疑う者との問答の部分で、最後は、「疑い」と諸仏と「證誠」のくだりは、人間の浅はかな知恵では仏智計らえないという点でも、有り難かった。

 翌日の講演は、本派の宗学院の公開講演で、苫米地誠一先生の「密教浄土教と阿弥陀如来像」と題して。未知の分野だが、前日に聞いた、法然聖人以前の南都(三論宗で、東密も学ばれている)念仏者である永観律師の思想に通ずる部分があって、重ねて勉強になった。

 もう一つの講義は、哲学者でもある佛大講師の西本明央先生の「仏身論の展開の中に見る「仏の慈悲」と題して、3回シリーズの第1回目。西本先生は、西洋哲学などの切り口からのお話で、いつ聞いても面白いと思うのだが、今日は、かなり総花的で、寄り道も多かった。でも「見仏と善知識と、仏の慈悲」のくだりは、興味があった。

 合わせて、今週は、1日~5日の5日連続で映画を見た。

 インド映画の「SANJU(サンジュ)」。

 アメリカ映画の「ハッピー・デス・ディ」。

 インドネシア映画「マルリナの明日」。

 日本映画は「新聞記者」。

 そして、イタリアなど合作の「君の名前で僕を読んで」。

の5本。いつもながら映画も、見放しで終わっているのが、ちょっと勿体なくもある。最後の「君の名前で僕を読んで」は繊細すぎるのと、苦手な分野(LGBTのGの世界)なので、乗り切れなかった以外は、かなり面白い映画が続いた。これだけ「あたり」の続く週は、珍しい。中でも、予定外のホラー(といよりサスペンス)コメディーの「ハッピー・デス・ディ」は、かなり笑った。続演も楽しみ。

 読書は、谷書店で仏書を2冊(涅槃経と、大経「下巻」の解説)を買ったが、読んだのは『修験道としての生き方』。「インドの集い」でご一緒した、聖護院門跡の宮城泰年師他の対談だ。まったく知らない世界で、とても新鮮。刺激もいただく。

 法座は、「仏書に親しむ会」があり、『仏敵』を読みだしたことは、すでに触れた。

 完全に、アウトブットよりインプットが多かった1週間。
 発信する方は、日曜日の聖典講座の準備をした。いろいろと聞いたり読んだりしても、自分が発言せねばならないとなると、これが一番の勉強になる。レジュメを作るには、繰り返し繰り返し、読まないといけない。ある意味、本気である。

 

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7月の「仏書に親しむ会」

 7月の「仏書に親しむ会」。伊藤康善先生の『仏敵』にはいまりした。前回は、総説だったので、今月は、第一章から、順番に声に出して読んでいきました。特に第一章の京都の描写は、小説そのものです。そして第二章の(一)は当専寺でのお母様との対話、(二)は野口道場に堀尾よしさんを見舞うシーンまでで読むました。

 ワクワクしてきました。この先が読みたいというところで、今月は終了。難しい言葉にだけ解説を加えましたが、声に出して読むだけでも楽しかったです。
 皆さんも口々に「楽しかった」とか、「よく分かった」とか、「今まで、食わず嫌いならぬ、読まず嫌いをしていたが、面白かった」などの声が聞かれました。

  せっかく乗ってきたのに、8月は子供大会やお盆参りがあるので、休会です。

 次回は、9月4日(水)夜6時50分~夜9時
 いよいよ核心に入っていきます。伊藤青年が、およしさんに会って、四方山話から、いきなり核心を問う、「おばさん、ときに自力他力の水際は、実際、心の中ではっきり分りますか」と、突然切り出されるところからです。この勇気ある切り出しが、今日の華光会の第一歩となるわけです。

 

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華光誌78-3号の発送

 華光誌78-3号の発送しました。

 今回は、初めての助っ人が登場。これまで愛知県在住であったのが、家族で京都の宇治に引っ越してこれらました。京都を選んだ理由は、聞法ができる環境という点もあったようです。会館の内装工事の引っ越しでは、旦那様にずいぶん助けてもらいました。今日は、奥様がお手伝い。今日の、華光誌のお手伝いは、二人とも宇治の方でした。ありがとうございました。

 なお、8月の仏の子供大会
 9月の聞法旅行(四国の法然上人の流罪と、庄松同行)
 来年1月の「インド仏跡巡拝」の案内状が、同封されています。奮って、ご参加ください。

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亭主は「ガッパ」


連れ合いが、次の公演のために6月下旬より東京で、稽古に励んでいる。

5月の公演が終わって、しばらくは公演がお休みだと思っていたら、まったく違う顔ぶれで、同じ芝居の計画が進んでいた。彼女だけが、同じ母親役で、主演も、すべて変わって、小さな舞台(トランク劇場)で公演がされるようだ。

また彼女の亭主が変わった。
昨年は、加藤剛さんのご長男で、加藤頼氏。今年同じ俳優座の宮川崇氏。二人とも、連れ合いよりもずっと若い。しかもなかなかのいい男、いわゆる二枚目である。当然、彼女のテンションも高かった。

ところがである。今度は、彼女よりも年輩の方。年輩といえば、彼女は、名優,米倉斉加年氏(80歳)と夫婦役の稽古をやっていたが、米倉氏の急死で、舞台にはならなかった。
今度の方は、町田政則氏。 ベテラン男優で、すごくたくさんの映画やテレビ、舞台、声優としても活躍されている。刑事ものにでると、強姦魔、殺人犯、受刑者、暴力団など役どころで、まあ二枚目とは言い難いようだ。しかし、子役からと芸歴が長く、「ゴジラ」「ガメラ」に続いけと、日活が総力をあげて作り上げた怪獣映画、大巨獣「ガッパ」で、唯一、ガッパと心を通わせることができる、南洋の子役で出演した人だ。そんなベテランなのに、若手からダメだしをされても、素直に対応されていて、腰の低さに、彼女は感心していた。ちなみに

大巨獣ガッパ

ぼくは、ガッパはすぐに分かったが、彼女は知らなかった。ネットで調べて、その映像と、ユニークな主題歌にはまって、それ以来「ガッパ」が我が家のトレンドになった。亭主はガッバというのだが、彼は決してガッパ役ではない。ガッパと会話できる少年なのだが、、、。もちろん、亭主がガッパなら、奥様もガッパなのである。

公演は、以下の日程です。東京の方、ご縁があったら見に行ってやってください。

◎かやの木会館公演

日時 7月6日(土) 1、昼公演(開演15:00)
           2、夜公演(開演19:00)
   7月7日(日) 3、昼公演(開演15:00) 開場は,30分前
会場 かやの木会館3Fホール
東京都台東区蔵前 3-22-9
主催 希望舞台「トランク劇場」を応援する会
共催 榧寺(かやでら)
問合 希望舞台 tel.fax 0493-59-9043 玉井090-2779-5917
   かやの木会館   03-3851-4729 03-3851-9770
      玉宗寺 03-3844-4444

◎長岡寺本堂公演

日時 7月 13日(土)開場14:30 開演15:00
会場 長岡寺本堂(群馬県太田市西長岡町728)
主催 天王山 長岡寺(てんのうざん ちょうこうじ)
問合 長岡寺 0276-37-1683 希望舞台・玉井090-2779-5917
入場整理券をお求めください。(先着100名様まで)

 

 

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