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空閑処での聞法

 お経に、「空閑処」という言葉がある。心静かに、仏道修行に励む場という意味である。その言葉がぴったりな緑豊かな地で、ご聴聞の機会をいただく。 

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 高速道路網が拡がり、時間は短くなった。幹線道路から離れると、一気に山の中に入っていく。対向車もほとんどない。村落に入ると、細い山道の向こうに本堂の屋根が見えている。今は檀家数も減った山寺だが、鄙びた山里にこんな立派なお寺が建っていることに、信仰の篤さが窺える。しかも、ただ建物があるだけではない。過疎が続くといえ、お念仏の相続がある。

 あいにくの天気だったが、逆に、雨に緑が映え、霞がかかり、また別の風情がある。
  「すばらしい場所ですね」とか「こんなところに住むのは贅沢ですね」などという。といっても、所詮、たまに旅行や観光で訪れて「いい」と言うのであって、やはり都会の便利さは捨て難いのである。いい加減なものである。

 それにしても、長年に渡ってお世話になってきた。ご迷惑をおかけすることもあったが、前住様からたいへん可愛がっていただいた。善き知識として、その受けた影響は、はかりしれないものがある。もちろん、現住職さまとも、妹さんとも、若い時からの聞法の友である。

 ただ、聞法旅行に参詣させて頂いた以来、久しぶりである。何度かお声をかけてもらったが、なかなかご因縁が整わなかった。13年前は、父も一緒だったが、ぼくがご法話をさせていだたいだ。義敞先生のご往生の2年後のことである。

 今日は、華光からも大勢お参りくださり、町に出ている門徒さん、昔、仏の子供大会に参加した方がお子さん連れでお参りくださるなど、見知った顔もボチボチあって、うれしかった。

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 何よりも、お念仏の声が絶えないのが尊い。当たり前のように大声で勤行され、当たり前のようにお念仏される。たとえ、真宗の教義に精通していたとしても、その方からお念仏の声がでないとしたなら、こんな空しいこたとはない。逆に、このお念仏されるのも、先代、先々代、その前からの、たゆまないご教化の賜物である。荒れ地を開き、石や木を除き、日当たりをよくし、水はけをよくして地を耕していく。そのように、お念仏の土徳を整えてくださった上にあるのだ。しかし、それが荒れ地に戻るのもまた一瞬である。法の相続ほど、難しいことはない。それを思うとき、当たり前のことなは何一つなく、たいへんな尊いお育て、照育の光明の働きがあってのことだ。

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 しかし、当たり前すぎると、私たちはそれを粗末にする。いや、そこにご恩徳のあることなど忘れている。それを毎日、毎日、毎日見ている硬貨や、簡単な図形の伝達ワークで、身で確かめてもらった。 

 皆さん、一応に驚かれた。見ているのに、見ていないのですね。聞いているのに、聞いていない。触れているのに、触れてないない。結局、無明とはそういうことかと。そこを智慧の光明で破ってくださるのが、阿弥陀さまの照破の光明のお働きなのであろう。智慧の光明なので、無明の愚痴の目が覚めるのである。

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