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日高での法事

日高での法事に向かう。

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 前夜は劇団の打ち上げがあり、遅くまで飲む可能性を考え、電車を予約しておいた。予想は半分は当たった。ぼくは早めに帰ったが、連れ合いは華光の人と飲んで遅くなった。色々あって、こちらも遅くなってしまった。山陰線に乗って、日高法座に向かうのは久しぶりだ。まだ免許がなかった10代の頃は、いつも「急行」に乗って訪れいていた。その車中でもいろいろなこと(酔っぱらいに絡まれている女性を助けたり、逆に、妙な男に人に出会ったり)を思い出した。

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でも、列車の乗り心地も、車窓の風景も、40年前とは大きく違う。その40年前から一番お世話になっていた方で、いわば、ぼくの外護の善知識の一周忌である。3年前に娘さん亡くされた。それでずいぶんガックリされた。葬儀、一周忌、三回忌と3年続けての勤めが終わって、一段落と思ったら、昨年、ご主人(お父さま)が亡くなった。また法要が続いている。このお家の皆様とは、ほんとうによくよくのご因縁だと思う。

 仏法のご縁がなければ、この皆様とも出会うことがなかった。それだけの念仏の法地だ。皆さんと一緒にお念仏し、勤行をしたが、次の世代、その後の世代の若い方には、お念仏の相続はこれからだ。ご法話もそのあたりに焦点をあてた。

 「恥ずかしがらず、口に出して「南無阿弥陀仏」と申してください」とお願いした。なぜ、心の中で留めないで、言葉にするのかをお話申しあげた。心の中は見えない。しかし、口に出すとはっきり見えることがある。しかしそれが難しいのだ。

 今日は母の日だった。誰でも「ありがとう」の5文字は、簡単に言えるが、母親と向かって、正面から「お母さん、いつもありがとう」「お母さん、産んでくれてありがとう」と言うとなると、照れ臭さや恥ずかしさが起こって、素直になれない。家族に対して、悪いなーと思って時も同じ。分かっていも、素直に「ごめんね」の言葉は、勇気が要る。たった一言。いや、ワンフレーズであるのに、難しいということを日頃経験している。それでいて、そうしようという思いはあるのにである。素直になれなくて、真逆な態度や言葉を出して、自己嫌悪になった経験は、誰もがもっている。

 「南無阿弥陀仏」も同じことだ。たった六字を称えることに抵抗する心が起こってくる。たった六字「南無阿弥陀仏」が素直に言えない。「恥ずかし」とか、「照れ臭さ」とか、「本心ではい」とか、「そんな殊勝な心はない」とか「そこまで熱心ではない」とか……。とにかく言葉にできない「気持ち」がどんどん湧いてきて、声に出さない。実は、そこに向き合うだけでも尊いのである。そして、その六字のお心を諄々と聞かせて頂くことが、ご聴聞である。その六字が、誰のために、なぜ、出来上がったのか。なぜ、南無阿弥陀仏の六字ですべてが終わるのか。

 心に正直であることも大切だが、行動が気持ちを造っていくということもある。「恥ずかしからず、声に出してください。一緒に、お念仏申しましょう」と、最後はお念仏を申して終わった。

 どこまで伝ってから知らないが、とにかく一座、一座のご縁を大切にしながらお伝えさせてもらった。南無阿弥陀仏

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~神鍋高原での会食。ご馳走過ぎて、苦しかったです~

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