仏法は具体的に聞け~永代経で味わったこと~
3日間の法縁で、いろいろなことを味わった。
よく仏法は「若いうちにたしなめ」といわれる。蓮如上人のお言葉だ。確かに、年をとると、体も不自由になり、頭も衰えてくる。耳も遠くなり、法席でも居眠りしてしまう。体力もなくなり、心だって頑になっていく。年齢と共に、そう実感されている方も多かろう。その点、若い人は、新しいことにもすぐ対応できるし、第一吸収がいい。心も柔らかいし、体力も、記憶力も、衰えがない。
しかし、年齢を重ねることは悪いことばかりではない。重ねただけの経験値が増え、わが身を通して豊かに聞くことができるのだ。座談会の発言でも、身近で、具体的なテーマを出されるのは、若い方より年輩の方である。言葉を換えれば、それだけ業が深いということにもなるが、、。
学生さんが心境を話された。非の打ち所のないその通りの発言だったが、あまりにも正解すぎて、何か面白みが感じられない。ぼくの感性がおかしいのだろうが、正解をいわれると、どこかでケチをつけたくなる。
これは子供大会や仏青の座談会でよくあることだが、優等生発言というか、正解を並べて事足りるということがある。もちろん、それは、若い時は、法話の内容も頭にはいり、要点を押さえて、しっかり発言できるということだ。ただ、それだけではわが身と言葉とが離れている気がしてならない。つまりは、どこまで身を通して聞いているのか。日々の暮らしの中で、具体的に聞いていくかである。それがないと、今生の生活と、仏法聴聞がバラバラになってしまって、なかなか自身の味わいが深まっていかない。
伊藤康善先生は、「仏法は具体的に聞け」と言われた。何も法座の場だけが、聴聞の場ではない。日常の生活の中でも、自分の姿を通して、ご法を聞かせてもらうのである。そうでないと、仏法が観念的になり、言葉だけの世界で事足りてしまう。生きた力になってこないのである。
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