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田を耕す~永代経で味わったこと(2)

 3日間の法縁で、いろいろなことを味わった。

  数年前のことだが、ある同人のお通夜に参列させてもらったことがある(このブログでも話題にしている)。交際が範囲の広い故人だったので、お寺ではなく、街の広い葬儀会館が会場だった。お導師が入場すると、ホールにお念仏の声が拡がり、お正信偈が勤まると、皆さん、一切に声を出して勤行され、ホール全体に拡がった。本来なら当たり前の話だが、都会ではあり得ないことだ。それだけご教化が行き届いているのだ。稀にみる法徳の地ではあるが、それは並大抵のことでそうなったのではない。先代、さらに先々代からの命懸けのご教化の賜物である。
 そのことを改めて思い出した。

 今、この華光の道場に集う人々から、念仏の声がほとばしる。そのおかげで、これまで念仏のご縁のなかった方でも、その中に身を置くうちに、自然と念仏を称える人に育っていくのである。そして、その環境の中で、お念仏を喜ぶ信心の人が誕生していくのである。しかし、そんな場づくりは一朝一夕のことではない。そのために先達のご苦労があったのだ。ただ、その上に私たちは乗せてもらっていることを忘れはならない。

 しかし、せっかくの美田も、日々の手入れを怠るとすぐに荒れ地となる。開墾までの苦労も、あっという間に廃れていくことも忘れてはならない。

 そして、この無仏法の荒涼の世にあって、たとえ小さくても、ひとりひとりが、おのれ分の地を耕して、念仏の種をまいて、信心の実りを刈り取らせてもらいたい。日々の相続こそがその力となるのである。南無阿弥陀仏

 ある時、托鉢中の釈尊に、ある男が言い放った。

「沙門よ、私は毎日、田を耕し、種を蒔いて、食を得ている。あなたも、自ら耕し、種を蒔いて、食を得てはどうか」と。

 釈尊は、「私も、毎日、田を耕し、種を蒔いて、食を得ている」とお応えになった。

 納得いかない男は、重ねて問うた。

「いやいや、誰もあなたが田を耕しているところを見たことはありませんよ。いったいあなたの鋤はどこにあり、牛はどこにいるのか。第一、あなた何の種を蒔いているのですか」と。

 すると釈尊はと仰った。

「信はわが蒔く種子である。
 智慧はわが耕す鋤である。
 身口意の悪業を制するのは、わが田における除草である。
 精進はわが牽く牛にして、行って帰ることなく、
 行いて悲しむことなく、われを安らけき心に運ぶ」と。
       (『仏教百話』増谷文雄著より)


 

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