聖典講座~観経・定善まとめ~
10連休の最後は、快晴。「聖典講座」で締めくくった。
連休で、逆に常連はお休みだったが、初めての方が3名あって新鮮な顔ぶれ。
前回で、定善十三観が終わった。そのまま散善に入ってもよかったが、改めて、定善十三観を、初観の日想観から、第十三観の雑想観までを、まとめて声に出して読むことにした。現代語であるが、みんなで声を揃えて読むだけでも、かなりの労力が必要だった。すべて通すとかなり量なので、初観(第一観)~第三観、第四観~第六観と、区切りがはっきりしている(第三、第六はまとめで、改めて呼びかけがあり、「ほぼ」(荒く)観たと言われ、滅罪が説かれ、正・邪観の定型の記述が繰り返される)ところを分割して読む進めた。すると、これだけでもついていくのがたいへんでフラフラとなってくる。するとすかさず、「諦聴、諦聴」と注意喚起があり、「除苦悩法を説くぞ」という釈尊のお言葉が染みてくるのである。悟朗先生の言われる、「身の程を知らず、自ら定善を説くことを要請しながら、疲れ果てて思わず居眠りをしてしまった」という韋提希夫人の状況が、身をかけて分かるのである。確かに、疲れて居眠りもでそうになる。そこで、苦悩を除く法として、阿弥陀如来が目の前に立ち現れてくださり、第七観の華座観があって、ここで依報観(浄土という国土の有り様を観想する)から、主報観(仏とその聖衆方を観想する)へと展開していく。
第八観像観、第九観真身観と読む。名所だけに要点も多く、少し詳しく解説をして、一気に、第十観観音観から第十三観の雑想観までを読む進んだ。今日は、暑かったことこともあって、ただ声にだして読むだけでも疲労した。というのも、あまりにも凡夫の人知を超えた世界なので、ついていくのもたいへんだった。それでも、まだ西の方角に、具体的な姿もって示してくだされる(指方立相)のは、凡夫(善凡夫)のためのご方便ではあるが、結局、それすらも悪凡夫(極重悪人)には、イメージも、理解もできないのである。ただ読むだけでもしんどい、ということを身をもって知ってもらった。頭から、「観経」は方便とか、定善は捨てものと、正解だけを聞いているが、その定善がどんなものなのかも知らないのが、私たちである。その意味でも、ザッーとでも触れてもうことに意味があった。
もう詳しくは述べないが、最後に、「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)から、第 巻の法然上人の臨終のありさまを窺った。法然さまが、三昧発得して、阿弥陀さまを常にみたてまつっている様子が詳しく説かれているのである。凡夫には不可能でも、善導さまや法然さまのような聖衆方の境地は、これなのである。そして、最後の最後まで、称名念仏されつづけて、最後は「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)」文を口にして、臨終をされる姿を窺った。同時に、『御伝鈔』から、親鸞さまのご臨終のありさまを窺ったが、まったく見事なほど一切の奇瑞も起こらず、静かに臨終を迎えられるところに、浄土真宗の平生業成のすごさを味わった。これはまたの機会に触れたいと思う。
晴天で暑かったが、終わる間際には、夕立があって、冷気が入り込んだ。
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