現代に『往生伝』は有効化か(1)
佛教大学ビハーラ研究会に出席する。
「現代に『往生伝』は有効化か」という研究発表。テーマが面白かった。
浄土教が盛んになると、中国で「往生伝」が作られるが、日本でも、平安時代以降、10世紀の『日本往生極楽記』を嚆矢に、いわゆる「六往生伝」が成立する。その後、中世以降はあまり注目されないが、江戸時代に入って全盛期を迎え、次々と往生伝が生み出されていく。明治期に入ってもしばらくは続くが、その数が激変。明治四十四年の「第二新明治往生伝』以降は、本格的な往生伝の編纂がなくなっている。
では、江戸後期の浄土宗系の「往生伝」はどんなものか。その人物像として、正直、温和、孝行、また忠義といった浄土宗の教えとは無関係で、むしろ時代的、社会的要求、倫理観が色濃く顕れてくるようになる。しかし、まだ往生行は専修念仏、臨終の奇瑞や死期の予知など、これまでの伝統的な往生伝の記述を継承している。また、例は少ないか臨終行儀などの作法も述べられている。がしかし、臨終の正念や奇瑞だけでなく、たとえ病苦や死苦も「転重軽受」と受け止めたり、臨終の奇瑞のみに偏重することを誡めあったりするという。
それが明治期になると、「往生伝」そのものが減ってきて、内容も、来迎描写で浄土へ誘引しようというような奇瑞重視から、出来る限り事実を事実として描写する傾向が強くなってくるという。特に、廃仏毀釈の嵐の中で、堕落的な僧侶の有り様ではなく、厳しい生活条件の中でも、道徳的にも、倫理的にも模範的な往生者が描かれるようになる。同時に、宗学も確立され、教義的誤解を招くような非科学的な臨終の奇瑞や来迎の描写は減ってくる。しかしそのことは、皮肉にも、民衆の要請であった従来の「往生伝」の臨終の奇瑞や死期の予知などの科学では割り切れない不可思議で魅力を削ぐこととなって、魅力を失った「往生伝」は、その後、まったく編纂されなったというのてある。
しかし、科学では証明できないような人々の抱く割り切れない思い、血の通った思いが我切れない思いが、非科学的とか、正統な教義で切れ捨てられていくだけで、ほんとうにいいのだろうか。現代には、現代に相応しい、「往生伝」があっていいのではないだろうか。
そして、単に、非科学的として切り捨てられない例として、東日本大震災の被災者やその家族の間で多く体験された「お迎え」現象の事例が紹介された(『魂でもいいのでそばに居て』より)。家族を失い、生き残った(取り残された)思いが抱く生存者が、夢などで、亡くなった親近者と出会い、癒されていく体験を綴ったものが紹介された。
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