« 授記 | トップページ | お見舞い »

高山支部法座~ボーと聞いてるんじゃねえよ~

Img_1386 高山支部法座。高山からは講習会のお参りがなかったので、「総序」をテーマに3席のご法話。

 冒頭は、なぜ、これを取り上げるか、その主題を話した後、『教行信証』と聞いて、思い浮かぶことをお尋ねした。そこから、教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻の構造、そして五願の関係など難しい話になった。

  やはり座談会の感想の中には、「難しかった」という声が多かった。そのなかで、理解できない自分を責めて、先生からも「ボーッと聞いてるんじゃないよ」と叱れたようだったと、涙で落ち込んでおられた方あった。それに対して、「そんな愚か者だと聞かせてもらうのだ」というアドパイスがある。確かにそうではある。でも、それだけではないと想った。。

 「難しいから分からない」と歎くのも、「例話が身近で分かりやすかった」と喜ぶのも、実は根は同じではないか。難しい、易しいも、すべて基準が自分のところにあるからだ。聞法が、それで終わってしまったら聞いたことにならない。

 確かに、難しい話もあれば、分かりやすい身近な法話もあるだろう。教義にな関心のない方には、今夜の話は、「難しい」で終わってしまう。しかしである。華光の法座は、講習会にしても、法話会にしても、単なる講演でも勉強会でもない。肝心なことは、その法話を通じて、ご講師が何を伝えようとされているのか、その要を受け取ることである。難しいとか、易しいとは、聞き手の力量に左右される。しかし、どんな法話でも、必ず主題があり、そして伝えたい何かがあるのだ。今夜の法話なら、なぜ、これを取り上げるのか。その意図は何かを、時間かけてかなり詳しく話している。つまりは、親鸞聖人が、『教行信証』を顕して、「浄土真実」として声を挙げねばならなかったお気持ちをお伝えしたかったのである。

 法話の聴聞といっても、ただ言葉を聞いてるのなら、所詮は、月を指す指を過ぎない。その指だけを捉えて、分かったとか、難しいとかで終わってしまって、真理の月を見ることがなければ、意味はない。

 その意味でも、愚かであろが、法義の知識がなくても、聞く力を身につけてもらうことが一番、意味のあることなのだが、なかなかそのことを身をもって理解してくださる方が少ないのが、現状。まだまだ力量不足である。

|

« 授記 | トップページ | お見舞い »

法座と聞法」カテゴリの記事