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授記

報恩講で「授記」のことに触れた。「授記」とは、如来(師匠仏)から「将来必ず仏になるだろう」という予言(記別)されることだ。そして、誓願を立て菩薩としての修行を修めていくのである。釈尊80年のご生涯が、後に過去世にも拡大され、ジャータカのような前生譚が生まれてくる。そこでは菩薩行、中でも大乗の行である布施行を修める前生の釈迦菩薩の姿が強調されている。当然、物事には必ず出発点がある。いろいろある前生の説話の中で、どこが最初の出発点なのかというと、前世での青年(スメーダ、後の釈尊)が、燃燈仏という如来に出会って供養し、記を授かったところから始まるのである。「釈迦菩薩」の誕生である。この時のお出会いシーンは、インドや中央アジアで「燃燈仏授記」として絵画や彫刻の題材となる、たいへん有名な逸話である。

この釈尊と燃燈仏の出会いは、『無量寿経』では「世自在王仏と国王法蔵(後の法蔵菩薩)」出会いということになる。その世自在王仏に遡る(下る場合と、遡る場合もあるが)五十三仏の出現にある。その時の初めの仏「錠光如来」は「燃燈仏」のことであることから、その影響がわかる。

いずれにせよ、仏様に出会って心が震え、その仏様を供養し、その師匠仏のように成りたいという菩提心(発心)を起こし、誓願を立て、菩薩としての行を修めることが、出発点である。仏様との出会いこそがそのほぼすべてだといってもいい。

そのために、釈尊亡き後の人々は、どうすれば仏様に値遇(もうあ)うことができるのか。時代(三世)と空間(十方)に拡げて、今、まさに活動しておられる仏を求めることになる。それが西方極楽浄土にあって、今、まさに説法されている阿弥陀如来である。そのために、見仏、観想する行が盛んとなる。または、死後に浄土往生して、阿弥陀如来にお会いし、その浄土で菩薩行を修めて仏と成っていこうというのばもそうだ。

ところが、善導様によって一大転回が起る。こちらからお会いするのではない、向こうからやってきてくださるというのだ。それが南無阿弥陀仏である。見仏から称名、念仏が、見ることから称えることへと一大転回するご教示た。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀様の「お前を必ず仏にしてみせる」というお誓いである。しかも、それは願だけでなく、同時に行も備わっている。願行具足の「南無阿弥陀仏」だというところまで教えてくださった。

末代の私達は、いまこ「南無阿弥陀仏」として仏様にお出会いさせていただくのだ。それを、「南無阿弥陀仏」に出会った先達を通して、教え頂き、出会わせてもらっているのである。その出会いに心震え、聞法の場に踏み出せていただいことが、私の聞法のほぼすべてだったといえるのもしれない。南無阿弥陀仏 

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