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同行の態度に撃たれよ~大阪支部法座より~

 奈良県生駒市での大阪支部の家庭法座。春と秋のお彼岸に、K家を会所にさせてもらっている。

 まだ日高支部の余韻が残っている。法話の冒頭は、その時の経験から。やはり、日高の古老たちの「態度」というところだ。いくら言葉が巧でも、そこに姿勢や態度が一致していなければ、人の心はなかなか動かないものだ。逆にいうならば、どんな稚拙な言葉であっても、たった一言であっても、態度と言葉が一致しているとき、人の胸をうつということもある。

 それは僕自身にしてもそうだ。善知識である父や母の言葉以上に、その態度、生きる姿勢に、心撃たれてきた。それは、華光に集う同行や同人の姿でも同じである。そんな先達の中で、お育てをいただいてきたのである。

 中でも、決定的な出来事は、小学生の時の夏に起こる。仏の子供大会の海水浴で、目の前で二人の溺死者を見た。夏休み中、自分の死が、自分の上に迫ってきたのだ。特に夜は不安で不安でたまらなかった。そしてお盆の夕方、ひとり泣いているぼくの所に、お盆参りの行く直前の父が、顔を出した。その時の父の態度がなければ、ぼくは仏の子供になっていなかったかもしれない。子供相手ではなく、一個の大切な求道者、聞法者として向き合ってくれたのである。

 お盆参りの予定を延期して、すぐにご示談をしてくれたのだ。お盆参りなので2時間ほどのことだ。夕食後にだって、時間とたっぷりある。その方が、ゆっくりとご示談することが出来るだろう。第一、他人様とのお約束を優先するのが、当たり前のことだ。商売上、約束を守ることが、一番大切なはずだ。しかし、その時の父は違った。「聞かせてください」と泣いてる、後生の一大事に心をかけた求道者が目の前にいれば、それが我が子であっても、今生事のお参りより後生こそ一大事だと、その場で、すぐに懇切な丁寧なお取り次ぎをしてくれた。

 しかし、ぼくは分かりたい、不安をなくしたいばかりで、話が聞けなかった。焦るばかりで、時間はどんどんとすぎていく。そのとき、父が子供のぼくに向かって、「これ以上の時間ない。もしほんとうに聞きたいのなら、命をかけて聞くか。そうでないのなら、これ以上の話はしない」と突き放した。そのとき、父もまた必死で、真剣そのものだった。結局、その姿に促されたのである。自分の心の変化や心境ではない。相手の態度に動かされたのである。意味など考えず、ただ間髪入れず、「はい、聞かせてください」と頭を下げた。

 すると、そこで飛び出したのが、「南無阿弥陀仏に飛び込むんや」の一言だった。まさに、善知識の仰せ、勅命である。それがどうすることやら、こうすることやらというはからいはなかった。ただ、その仰せに従うだけ。南無阿弥陀仏」と身をかけて飛び込むだけであった。

 今日の法話は、冒頭で日高の同人の、最後に父の態度について触れた。そこを中心に、光明の二つの働き、調熟の色光の照育の働きと、摂取の心光の照破・照護の働きについて話した。しかし、なかなかうまく皆さんに聞いてもらうことが出来なかった。目の前の事柄やエピソードは聞けても、何が中心で、テーマなのか、そのお心はと、話の核を聞こうとする人は極めて稀である。聴聞は、なかなか難しいものだ。

 

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