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京都家庭法座~凡夫といふは~

凡夫というと、すぐに煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫という言葉が結びつく。罪深い、愚かな、どしようもない者というイメージだ。
しかし、もともと凡夫とは、仏道修行の段階で十地以上の菩薩、つまり聖者と区別して使われるものであった。

菩薩の五十二段の階位では、最初の仏道の初め、発心し歩みだす十信の位が「外凡」で、さらにの十住、十行、十回向が「内凡」とか「三賢」といわれる位である。ここまでは仏道を歩んでいてもまだ聖者ではない。そこから「初地」に入ると、十地位からが菩薩と呼ばれるようになる。広い意味では、仏道の始まりも菩薩ではあるが、厳密には「初地」からが菩薩で、そこから等正覚(弥勒菩薩)、妙覚と続いて、仏果を得るのである。

しかし、仏道修行の一歩も踏み出せないものはどうなるのか。善導様、法然様の浄土教によって、一大転換が起る。善導様は、『観経』韋提希夫人を、仏道修行に耐えられない、実凡夫(「汝是凡夫・心想羸劣」=「なんじはこれ凡夫なり。心想羸劣にして」と説かれる。「羸」(るい)とは、「やせる」「つかれる[とか、「よわい」「わるい」という意味)だと見られた。けっして、自力修行では仏になれないものに、他力の増上縁がかかっているのである。

さらに、親鸞様は、薄地の凡夫、底下の凡愚とお示しくださり、そしてこの御文で止めを撃たれた。

凡夫といふうは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえずと水火二河のたとへにあらはれたり。『一念多念証文』

つまり、凡夫とは、無明煩悩が身に満ち満ちている私達のことであると。そこで、煩悩は恐ろしいのだが、ほんとうの迷いの元は「無明」である。貪欲(水の河)や愼恚(火の河)は荒れ狂って分かりやすいが、恐ろしいのは「愚痴」(風)の働きなのだ。愚痴こそ、三毒の煩悩の中でもやっかいなものである。その愚痴は、無明、つまり真実に暗く、明かりがない。迷っていることにも気がつかないほど、闇が深いである。つまり、単なる煩悩ではなく、「無明煩悩、我が身に満ち満ちている」、私はは無明そのものであるとみられた。それが、臨終の死ぬまで止まることがない。助かる手がかりがないものが凡夫の私だと、深く見つめられたのである。

ともすれば、「凡夫だから」との言い訳にしている場合ではない。迷いを重ねて、仏道修行を踏み出さない罪悪人だというのは、阿弥陀様の真実の眼で御覧になられた私の姿そのものであり、そこに命を捨て飛び込んでくださっているのだ。そこでしか、阿弥陀様にお会ういできないのである。

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