福岡家庭法座~今、目の前いるあなたに~
博多での家庭法座である。1月と7月の年に2度、会計事務所と、自宅での法話会を持ってくださっている。今年は、2月の連休中の開催。
この家庭法座が始まって、丸10年が経過したという。2009年で、悟朗先生を招かれたのが、初めての家庭法座。その後、体調が悪くなってからは、小生がお世話なっている。
事務所で昼座は「人生の実相」と題した法話。翌朝はY先生が1座されたが、王舎城の悲劇を『観経』に沿って、特に韋提希夫人のお救いに焦点を当ててご法話くださった。愚痴の女人のお救いである。最後に、昼座では、「苦悩の有情」のお救いを、3つの身近で起った具体的な例話でのてお取り次ぎ。老・病・死に、愛別離苦、怨憎会苦の実情を話した。事前に、打ち合わせをしたわけではないが、結局、阿弥陀様の真実の眼に写った、アミタ様本願に願われている機無(私の側に真実のかけらもない)の実際を聴いてもらったことになった。助かる手がかりを微塵もないわが身に出会うことが、同時に阿弥陀様に出会うことでもある。
最後の座談会、10年前に、悟朗先生にご示談を受けたIさんへのアプローチする。もう80もすぎ、すっかり耳も遠くなって、ほとんど法話を聞き取れない。ますます自分の殼に閉じこもって、同じことを繰り返されるだけだ。自分の後生の解決は阿弥陀様におまかせで、自分ではどうしょうもないので、ただ毎日、お念仏を申して頼んでいると。それでも、唯一の願いは、自分が父親から仏法を聞くようにお育てをいただいたように、なんとか長男に浄土真宗の伝えたいというのだ。どんなに丁寧に、またゆっくりとアプローチしても、最後は自分の思いと願いに帰っていかれる。もう自分の思いや気持ちにしか心はよらない。ならば、そこを変えさせるのでも、手放されるのでもなく、逆手にとってアプローチをした。「なんとか伝え、聴いてもらいたい」という親を願いは、それは阿弥陀様も同じ。決して不特定の十方衆生にかかっているのではない。それは、いま、ご示談をしているぼくの願いもまったく同じなのだ。不特定の多くの人に仏法を伝えたいのではない。たったひとりでいい。いま、目の前で苦悩しているIさんこそ聴いてもらわなければ、いままでも、またこれらかも仏法をお伝えしていく意味がないという気持ちを聴いてもらった。
心が動くことのなかったIさんの目から涙が落ちる。そして同時に「ありがとうございます」と頭をさげれらた。しかし、それは人間の言葉。阿弥陀様の御心に触れたなら、「南無阿弥陀仏」と申す以外に何もないのである。
最後は、お念仏と共に、尊い御座は幕を閉じた。南無阿弥陀仏
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