聖典講座・真身観(2)「念仏衆生 摂取不捨」
(二)次に、無量寿仏の光明についてである。
「また八万四千のすぐれたお姿があり、その一々に八万四千の細やかな特色があり、その一つ一つにまた八万四千の光明がある。
その一々の光明が、十方世界をくまなく照らし、念仏の衆生を摂取不捨してくださる。その光明・相好・化仏の詳細は説き尽くせないので、心眼を開いて明かにすべしだ。」
ここで大切な御文が、
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
(光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)
である。これは浄土門の教えでは、金言といっていい一文だ。「空で覚えてください」と皆さんに申した。
「摂」は、多くのものを取って離さない。「取」は、しっかりもって離さない。「捨」は、持っていたものを手放すことなので、「不捨」はその強調の否定である。要するに、念仏する衆生を大悲の光明に摂め取り、決して捨てられないのが阿弥陀様のお救いだという「摂取不捨」について述べられている。
▼それについて、善導大師は、「三縁」(阿弥陀仏が、念仏の衆生を摂取する三種の深い関わりのこと)ということを述べられた。
(1)親縁=衆生が、口で仏名を称え(称)、身で仏を礼拝し(礼)、意で仏を念ずる(念)時、これらを仏も、聞き、見て、知り、衆生と仏とは互いに憶念しあうという密接不離の関係にあること。「彼(阿弥陀仏)此(行者)三業、相ひ離れず」。
(2)近縁=衆生が、仏を見たいと願えば、目の前に現われる近い関係になること。
(3)増上縁=衆生が名号を称えれば多劫の罪を除き、命終の時、仏は聖衆と共に来迎し、罪業の繋縛に障妨されずに往生することができる。
親鸞様は、すぐれたご因縁のことで、衆生の煩悩罪障に障り無く、自在に救う阿弥陀仏の無碍に働く本願力と見られている。
▼また、法然聖人は『選擇集』第七章に、「弥陀の光明余行のものを照らさず、ただ念仏の行者を摂取する文」で述べられる。『観経』や『四帖疏』などを引用し、最後に私釈段では、1、善導様の「三縁」と、2、弥陀の本願にかなっているからだ、という2つの理由あげておられる。(余談ながら、これにもとづく他の行者が救済がもれた絵画などが造られ、専修念仏の弾圧に拍車をかけることになる)。
▼また、源信僧都の御文も、親鸞様は『正信偈』や『高僧和讃』に転用されているのが有り難い。
「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、 大悲、倦(ものう)きことなくして、常にわれを照らしたまふといへり」(『正信偈』)
▼その親鸞聖人は、
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(『浄土和讃』)
と、その摂取に、「摂(おさ)とる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取 るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(国宝本『和讃』)と左訓されている。
これはご文だけでなく、有名な庄松同行の摂取不捨の逸話でも味わった。
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