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聖典講座・真身観(1)~なんと大きな阿弥陀様だが…~

 定善十三観もいよいよ今回は、その中心である第九観の真身観である。顕(表)の立場からは本経の中心となる観法だ。善導様は、第八観から正報観(阿弥陀仏や聖衆方の観法)となると御覧になられた。しかし直ちに阿弥陀仏を真観するのは難しいので、その前段階として御仏の姿を写した仏像を観じる仮観(方便観)が説かれた。「黄金に輝く仏像が、極楽の七宝の蓮華の上に坐しましますのを、はっきり観想する」という像観が成就したら、いよいよ阿弥陀仏のお姿と光明を観察するのである。

(一)まず無量寿仏の身相(お姿)である。
「身は、黄金に輝き、身長は六十万億「那由他」(一千億)「恒河沙」(無量)「由旬」(七㎞)
 眉間の白毫は、右にゆるやかに旋り、大きさは五つの須弥山(=一世界)。
 仏眼は、大きさは四大海水のように広く、青白澄みきっている。
 毛穴からは光明を放ち、須弥山のように大きい。
 円光=頭の後ろの光輪(頭光)は、百億の三千大世界の大きさで、その中に百万億那由他恒河沙の化仏があり、無数の化菩薩が付き従う。」

◎とんでもない大きさである。天文学的数量というが、ある意味でいま理解されている宇宙規模を超えているといっもいい。しかしここで観想される阿弥陀様は、報身仏か、方便化身かという問題がおこる(仏身報化論)。確かに、人間の理解を遥かに超えた天文学的数量でも、数字で限定された有限で、方便化身だというのが、親鸞様のご理解だ。

「謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の 仏これなり」(化身土巻)

 一方で善導様は、報身仏だと見られているのだ。
        「これ報にして化に非ず」(玄義分)

  これは、親鸞様が『観経』に隠顕(顕は自力方便、隠は他力信心)があり、まずは顕説(経典の当面での理解)の立場で見られたものである。化仏とは、仏が教化の対象になる衆生の能力に応じて、理解できる姿で変化されたものをいう。しかし、隠密(隠された真実の立場)では、この後に続く衆生を「摂取不捨」される光明のお働きを重視されて、報身仏(光明無量・寿命無量)であると味わっておられる。

また、次いで仏身についての経緯として、「色身」(生身)と「法身」という二身説から、私達になじみの「三身説」を窺ったが、詳細はここでは省略する。
 法身仏(無始無終)-無色無形・真如そのもの(浄土和讃55首)
 報身仏(有始無終)-阿弥陀如来の如し   (浄土和讃3首)
 応身仏(有始有終)-釈迦如来の如し  (浄土和讃87・88首)

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