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念仏者九条の会~憲法『第一章 天皇』と『第九条 戦争放棄』今、改めて問う」~(1)

 聞法会館での本願寺派の念仏者九条の会と大谷派九条の会、そして真宗遺族会の合同全国集会に出席する。

 講師は、明治学院大名誉教授の阿満利麿氏。これまで何冊か阿満先生の著書を拝読しているが、法然聖人や『歎異抄』テキストなどの著述もある。今回は、「憲法『第一章 天皇』と『第九条 戦争放棄』今、改めて問う」というテーマでの講演とシンポジウム。

 だいたいこんなふうに聴いた。

 敗戦後、米国(GHQ)は、象徴天皇制を利用して統治支配を行った。だが先の大戦が天皇の名の元で始まり、侵略されたアジア諸国には脅威が続くので、天皇を護るために、第九条の戦争放棄、つまり軍隊を保持しないことを、その担保にしたという。つまり、第一条を補完するための第九条だったというのである。

 天皇は、歴史の大半において象徴的に位置づけられてきた。だが象徴だといっても、必ずしも政治的に中立だといはいえず、政治制をはらんだもので、それを支配者は都合よく利用してきた歴史がある。しかも、世襲の血族支配(しかも男系)を根底とする制度を、統治の中に組み込んだままのカリスマ支配は、被支配者に、思考を委ね従属する構造を含んだもので、国民個々の主体性を阻害する制度である。

 しかしながら、戦後も一貫して、多くの知識人においてすら、天皇制は問わない(問えない)問題であった。また敗戦直後も今日も、国民の8割以上が天皇制を指示し、廃止や見直しは8%にも満たないという調査結果がでているという。

 今日、天皇の役割の一つは、動き回り、慰霊するというものがある。戦争や災害などで慰霊せねばならない人間を産んだ後ろめたさがあるからだ。慰霊そのものは宗教ではないが、念仏者からみれば到底認められない行為であるといわねばならない。

 敗戦直後、柳田国夫は、その背景には島国根性があるといったという。その一つは、あの人たちにまかせておけば間違いない、そして二つ目が、群に従う性質。それを事大主義といわれた。事大主義とは、大きなものに仕える、権力者の言いなりになり、力をもつと威張り、弱者差別していくという。

 事大主義の根深い背景には自然宗教にあるという。
 一般に宗教は、「自然宗教」と「創唱宗教」に分類できる。自然宗教とは、分からないうちに始まるもので、教祖もなく、聖典もない。自ら信仰しいるという自覚もなく取り込まれていくものであって、日本では、個人よりムラ単位で、また年中行事に取り込まれて、書かれざる経典をもっている。習俗や年中の習慣の中に紛れている。

 それに対して、「創唱宗教」は、始めを唱える宗教で、教祖があり、教義がある。ここで詳しく、日本での年中行事に取り込まれた自然宗教のあり方(例えば「お年玉」の「たま」とは何かとか、現世とあの世の関係との話かあった)の例話が出された。

 ところで、日本の神道は、自然宗教であるが、創唱宗教の側面もあって、その中間に属する厄介もなのだ。神は姿を顕さず、その神を祀るもの、神の声を伝えるものがパワーをもつ。それに対して、日本仏教は儀礼の面で、自然宗教の手助けをして取り込まれていった。 

 さらっと触れるつもりだったが、思わず長くなった。ちょっと小休止(続く)

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