聖典講座・真身観(3)「仏心とは大慈悲これなり」
(三)仏心とは大慈悲これなり
「このように無量寿仏を観じたものは、十方の一切の諸仏を観ることができる。諸仏を観るから念仏三昧と名づける。この観を行うと一切の仏身を観ずるのだが、仏の姿を観るものは、その姿の上に顕された仏の御心が見える。その仏心とは、大慈悲である。それは生きとし生きるものを分け隔てなく救おうという無縁の大慈悲である。この観が成就すれば、来世には必ず諸仏の御前で、無生法忍というすぐれた悟りの境地を獲得する。だから、智者は明かに無量寿仏を観想しなさい。」
このなかでも「大慈悲」「無縁の慈」のお心は有り難い。
慈=衆生を慈しんで楽を与える(与楽)。原語マイトリーは、ミトラ(友)から造られた名詞で、友情のこと。一切の人々に対する平等の友情のこと。
悲=衆生を憐れんで苦を除く(抜苦)。原語カルナは、痛みや悲しみ。もともと「呻き」。苦に直面したものに対して自分の痛みのように同感し、救おうという働き。
龍樹菩薩(大智度論)は、三縁=三種の慈悲を説かれた。。
衆生縁=凡夫が起こす限定的な慈悲(小悲)
法縁=小乗聖者が起こす慈悲(中悲)
無縁=仏が起こす無差別の慈悲(大悲)。縁故に囚われない平等、無量の慈悲。
ところが、親鸞聖人は、凡夫が起こす限定的な慈悲すら微塵もないと言われた。
「小悲小慈もなき身にて 有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき」(悲歎述懐讃・617)
阿弥陀様の無縁の慈悲以外に救われていく手掛かりはないんである。
伊藤康善師の「大悲の呼び声」(3頁より)には、
「どうして衆生を救おうか。なんとか救うてやりたいと、無縁の慈悲をむねとして」
と歌われた。南無阿弥陀仏
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