念仏者九条の会~憲法『第一章 天皇』と『第九条 戦争放棄』今、改めて問う」~(2)
「憲法『第一章 天皇』と『第九条 戦争放棄』今、改めて問う」というテーマでの、阿満先生の講演の要旨の続き。
創唱宗教である浄土真宗も、たとえば死者儀礼いう面では、日本古来の自然宗教に呑み込まれている。死者=「仏」というが、その場合は、目覚めた覚者「ブッダ」という意味での「ブツ」はなく、「ほとけ」という。仏が「ほとけ」となったのに諸説があるが、そのひとつに、先祖を祀る器具である「ほとき」を由来するという。それを補完する形で仏教の法事が使われている。あの世に入き、三十三回忌を終えた「ほとけ」は、ご先祖になって子孫を護る存在になっていく。
日本人に根にある祖先教を克服し、「ホトケからブツへ」という仏教や真宗の本来性を取り戻せるのかが、第一の課題である。
事大主義を破り、超えていけるのは、法然や親鸞の示した浄土教しかない。しかし、教団は覚如、蓮如を経て、自然宗教に取り込まれていった。死者儀礼や先祖教が、寺や住職の役割となって機能している。
また教団の中にも、門主制という天皇制を内抱している。血統で護られるのは、門主制だけでなく、各寺院も同じで、そこにも裏寺や下寺の関係、僧侶や寺族と、門徒との関係、特権意識が根深く浸透し、同朋精神が欠如している。
各僧侶が自らの特権意識をどう向き合い、お西も門主制から門首制に生まれ変われるのかが、第二の課題である。
法然や親鸞が示した本願念仏の道はまことに厳しい。しかし、阿弥陀如来は遥か彼方のお浄土で鎮座されているのではない。どのような形で姿を顕されるのか?私の称える「南無阿弥陀仏」として顕れてくださる。どこでも、誰でも、称えられるからこそ、普遍性をもつ。阿弥陀仏が、私の中で働いてくださっているのだ。称える時だけ存在するといってもいい。それが凡夫の中にも少しずつ少しずつ蓄えられている。なかなか凡夫は変われるものではないが、徐々に変わっていく。その時二つのことに気付かれる。
(1)人と自分との違いを認められる。親の愛情といっても、エゴの自己主張にすぎない。尊重する。宿業が違うことに気付く。
(2)同時に、共通点もある。共に凡夫。共に「アホ」ということ。
天皇といっても、門主といっても、同じ凡夫に変わりはないのに、血統を崇めて特別視するのはおかしい。
厳しい道でも、本願念仏のみが現状破る唯一の道である。法然も親鸞も、二十名ほどの念仏する人がいることがすばらしいと。法を説くのは僧侶、門徒は聞くだけというのは間違い。たとえ5~6名でも、声を出しあえる念仏者の集いを大切にしていく。真宗念仏は大集団向きではない。そのような小集団がたくさんあって、連帯しあうことが大切てある。これは、念仏に生きる道を見い出したものの使命である。ひとりの力はしれている。人寿もたかだか100年足らず。六道輪廻の迷いの歴史を考えても、もっと長い尺度で歩んでいく。その志願を次々と(この言葉はなかったが、連続無窮ということ)つないでいくことが大切である。
てなことかと思います。まだ過激な発現や表現もあったけれど、この程度が、ぼくがメモった内容。隣の連れ合も何か書いていたので、何をメモしたのかと覗くと、こんな落書き中。これが一番面白かった。
もちろん、異論(お念仏の理解や成長の部分)もあるけれども、すごく刺激をもらった。ここ5~6年、念仏者九条の会にでているけれども、いつもきな臭い、まなまなしい話ばかりだったが、初めてお念仏の話が聴けたのがよかった。同時に、わが身のこれまでの歩みや、華光や真宗カウンセリングでの目指してきたことに共感する部分が多くて、力をもらいました。感じたことをじっくり温めていきたいですね。
| 固定リンク
「法味・随想」カテゴリの記事
- 修正会(2)~地震~(2024.01.03)
- 今日はご示談(2022.11.25)
- 神鍋高原・八反瀧(2022.11.06)
- 納骨法要(2022.10.29)
- 法に追い立てられる幸せ(2022.05.29)