« 冬の北海道(8)~荻原果樹園 | トップページ | 真宗カウンセリング研究会の世話人会 »

報恩講法座

    北海道気分がまだ抜けなかったが、親鸞聖人の報恩講法要の法座が始まる。浄土真宗ではもっとも重要な行事である。

 今年は若手講師の皆様が、法中として出勤くださり、また分級座談会でも活躍くださった。そしてご法話の4名のご講師のご法話も熱がこもって、とても有り難かった。 

 ぼくはいくつか例題をもっていた。一つは、今は「正解」ばかり求めていく「正解圧力」の社会で、その姿勢で聞法してはいかいなという問い、二つ目は、「授記」(仏様から「必ず仏にるだろう」と予言されること。メーンは、「独生・独死・独去・独来」の「独り」ということ、さらに今日の真宗が、易しいということを強調するが、むしろ難信であることを親鸞様は教えてくださっているということなどだった。

 最後の難信ということを、『大無量寿経』下巻にある釈尊の勧誡から頂いた。偶然、すべての先生方が「三毒段」のご文に触れてお取り次ぎくださったが、『大無量寿経』は下巻の「易往而無人」(お浄土は、往き易いのに、往く人が無い)という言葉から、一転する。そこまでは、弥陀の本願による「往き易い」浄土にについて、阿弥陀様のご説法だが、ここからは「人が無い」という釈尊の厳しいお小言が始まる。
 では、なぜ往き易いのに、往く人が無いのか。そのことを釈尊は勧誡段で

1、三毒・五悪の故に(三毒段・五悪段)
2、仏智疑惑の故に (胎化段)
3、遇善知識の難の故に(流通分)

の理由をあげておられる。煩悩に騙されてなかなか聴聞のご縁を喜ばず、やっと聴聞をするようになっても仏智疑惑に敗れずに真実に昏く、その最難関を厳しく指導くださる先生に遇うことがまた難しいというのである。

善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし  (浄土和讃)

 

|

« 冬の北海道(8)~荻原果樹園 | トップページ | 真宗カウンセリング研究会の世話人会 »

法座と聞法」カテゴリの記事