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聖典講座~定善(4)像観・作仏是仏論

 次の作仏是仏論「この心作仏す、この心これ仏なり」(是心作仏・是心是仏)についても、聖道祖師方と、善導さまの立場大きく異なる。

 法界身を法身仏と理解する理仏観の立場の聖道の祖師方は、その衆生の心は法身の理仏をそなえたものであるから、「衆生の心そのままが仏となる」(是心作仏)であり、当然「その心の他に別に仏はない」(是心是仏)なのだと解釈された。
 また衆生の煩悩の心も、その本性は清浄な法身真如そのものであって、浄化さえすれば(懺悔し、滅罪し、観法の修行する)、本来の清浄な心に帰ると理解された。そこから、「唯心の弥陀」や「己心の浄土」(聖典・941頁参照・浄土真宗では捨てもの)などが語られることになる。

 それに対して、善導大師は、「唯識法身」や「自性清浄仏性」の観を批判されている。
 そして「観法によって衆生の心の中に仏が作られる」ことを「是心作仏」、「その仏と衆生の心とが一つになり、その心を離れた仏はなく、仏を離れた心もないという境地」が「是心是仏」と理解されていった。

 さらに、親鸞様は『論註』のこの箇所を信巻で引用されて、『観経』の当面の理解ではなく、「是心」を衆生の一心帰命の信心とみられて、他力回向の信心の本質は、仏心であると説かれた。また、如来回向の信心こそが仏道の正因となるので、「作仏」を仏に作(な)るの意に転じられていくことになる。(『信巻』253頁参照)

 以上を踏まえた上で、詳細な仏像の観法が説かれるさまを現代語訳で頂いていった。
 
最後に、この第八観で忘れられないのが、『仏敵』の伊藤先生の体験だ。3頁分をお配りして声に出していただいた。

「そのとき! 私は不思議なるのも凝視した。
 水流光明! そうだ、水流光明だ。『観無量寿経』の第八観にある「行者当聞・水流光明(行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし)」と言うのは、まさしくこれだ!」 (『仏敵』158)

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