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第5回 「念仏と黙想と語らいの集い」

「念仏と黙想と語らいの集い」も、第5回を迎えた。

 昨年も同じ日程で一番参加者が多かった。それで今年も同じ日程にした。が二匹目の泥鰌はおらず、〆切直前になっても、数名だけという状況だった。3連休、翌日には東海や京都支部法座も控えており、昨年とは少し状況が異なった。別に人数の多少は関係ないのだが、数名だったら、みんなで称名を味わうという部分が寂しくなってしまうのだ。しかし〆切後、ボチボチと参加者が集りだして、両日共に16~7名の参加者が揃った。大分や富山からの参加者もあった。個人的には、母と、ぼくと、娘の3代で、お念仏申せたのが尊かったし、十八歳の娘の率直な味わいが感慨深かった(ぼくだけなく、何名かの方から声が上がったが、自分の同年代の頃の聞法を思い出させたようだ)。

 人数は多くないので念仏の響きは凄かった。ぼくもいろいろと称名念仏を味わった。一人で称えているは味わえないダイナミック性がすごい。バラバラで不協和音の声が、どんどんと一つのハーモニーを奏でていくのがすばらしかった。15名なら15名分の声質が違い、称え方違い、スピードが違い、声の大小が違い、髙さが違う。「これは○○さんのお念仏だなー」とわかると、それと対話するようにその声、その早さ、その髙さ、称え方に合せてみたりもした。そのうち、その方とお別れして、次の方に合せていく。そんな称え方もさせてもらった。

 また源信讃にあるように「行・住・座・臥」(歩く、留まる、座る、寝る)を選ばないお念仏ならばと、それも実戦してみた。座る、寝るはともかく、立つ、そして歩くは特に勇気がいった。まるで行道のようになるからだ。しかし一端その枠から離れると、とても自由にお念仏をするけとができた。それ以降、皆さんの中で、寝る奴、唄う奴、立つ奴といろいろな個性が表れ出した。とうとう、浄土宗の僧侶の方が、「三称礼」とか「立位礼拝」の作法での唄うような称名念仏が始まった。後で、「『負けるか』という思いで念仏しました」という声があった。なんとなく浄土宗の行に対する対抗である。ところが、最初は、不協和音であったのに、5分も過ぎると、だんだんと声か揃ってきて、美しいハーモニーを奏でるようになるのだから不思議だった。後から、抵抗なく浄土宗の念仏行についてお話を聞くことができたのも、この集いの意味だったのかもしれない。

 お念仏も、静かな黙想の時間も、そして語り合いの時間も、手頃な人数だったこともあって、どのセッションも充実していた。たくさん称名念仏をしたように思ったが、2日目(丸1日)で、たった62分(8セッションあり、それぞれに5分から10分間のお念仏)1日あたりなら30分の称名念仏だったと告げると、皆さん、一様に驚いておられた。2日間、称名念仏漬けだったように思ったからだ。凡夫の行いはまったくお粗末ということである。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 

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