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三十三回忌法要

  高山法座に向かう朝、三十三回忌法要のために宇治まで足を延ばす。

 不思議なご因縁で、檀家のようになっておられる。華光会館が完成してしばらく後、ご近所の方からのご主人のお葬儀の依頼があった。それから60年近くの月日が流れたが、息子世代になって、宇治に引っ越しをされてからもおつきあいが続いている。その奥様の葬儀も引き受けたが、その方の三十三回忌が巡ってきたのだ。

 ほんとうの家族だけの集りだったので、45分ほどご法話をさせていただいた。世情を交えながら、母親のご恩や浄土真宗の他力回向のおこころなどをかみ砕いてお伝えしたつもりだ。皆さん、特に実家もお東の檀家だという奥様は、よくうなづき、相槌も打って熱心に聞いてくださる。しかしである。自分事としてのご聴聞、聞法となると、ここからが至難である。チラシも持って、1月の報恩講や4月の永代経の説明をしお参りをお勧めしてみるのだが、ただ愛想笑いをされるだけで、なかなか次の一歩がでないのである。

 お盆の時もそうだが、わざわざ家族が総出で、外まで出て、車が見えなくなるまで、お見送りしてくださる。

 当たり前のことりが、世間では、お寺は亡き人の供養回向の場としてのおつきあいなのである。そこを丁寧に勤めてもらえることを喜んでおられるのである。

 でも、仏法は故人てはなく、今、生きている私の、後生の行先を解決させてもらう一大事であるが、そこに心を寄せるには、転機というか、飛躍が必要なようだ。

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