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聖典講座~定善(4)像観・法界身論

   『観経』の講義も、正宗分(本論)の定善十三観に入っている。前回、第七華座観では、住立空中尊として阿弥陀如来が凡夫の韋提希の前に来現された。凡夫を憐憫した釈迦・弥陀二尊の連携プレーでの救済のお働きを窺った。

 今回は第八観・像観に入る。ここから正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)になると善導さまは頂かれた(聖道諸師は、華座観から正報観と観られた)。阿弥陀仏の仏身を見奉ていくのであるが、いきなり阿弥陀仏を真観するのは難しいので、まず仮(方便・前段階)に、御仏の姿をうつした仏像から観じる、仮観(方便観)が説かれていく段である。

 ところが、具体的な像観に入る前に、仏を念ずればその想念の中に仏が顕現するのは何故かという説法が置かれる。ここは、「法界身(ほっかいしん)論」、さらに「作仏是仏論」(この心作仏す、この心これ仏なり・是心作仏・是心是仏)という教学的にも重要な一段となる。

 従来の聖道の諸師方のご理解と、善導様とでは全く異なるご解釈になるのだ。さらに親鸞さまや浄土真宗では他力回向の立場を押し勧めてお示しくださっている。
 そこには、法界身の「法界」をどう捉えるのか。またそれは理観なのか、事観なのかという相違がある。ただ単なる解釈の相違というより、『観経』が誰のために説かれたか。そして私自身がどのような物柄なのか(根機)という、根本的な理解の相違から起こっているので、かなり難しい講義とはなったが、時間をかけて窺っていった。

▼〈書き下し文〉「つぎにまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏・如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。」

▼〈現代語訳〉「次に仏を想い描くがよい。なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入れ満ちてくださっているからである。このために、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、このこころがそのまま仏なのである。まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心に従って現われてくださるのである。」 

 現代語だけ見ている限りはなにも疑問は起らないが、

(書き下し)「諸仏・如来はこれ法界身なり」
(現代語) 「仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり」

「法界身」が「ひろくすべての世界で人々を教え導かれる方」と訳されているのが分かる。

▽つまり、聖道諸師方は、法界身を法性身、法身仏と観る。理法身で、真如(無分別智の悟りににる不生不生の真理そのもの)の異名と見られた。

▽それに対して、善導大師は、聖道諸師の誤りと指摘された。もし法界身が法身仏ならば、無相(色もなく形もない)離念(念いも断えた) の仏であって、凡夫に理観の観想などできない。第一日想観では浄土は西にありと指さし、その後の観法でも荘厳の相を詳しく説かれ、またここでも三十二相の姿をもった仏像の観法が説かれている。つまり、『観経』は韋提希のみならず、後の愚かな凡夫のために説かれたもので、「指方立相」をもって、浄土や阿弥陀仏を示してくださったものだというのである。

 法界身の「法界」とは「所化の境」、すなわち仏の教化の対称となる世界、つまり衆生の世界。
 「身」は「能化の身」、すなわち化益される主である仏である。つまり、衆生界を化益される仏身と頂かれたのである。それを以下の三義で説明される。

 心遍 =仏の大悲が衆生の心に遍満される。
 身遍 =衆生がその仏を観ずれば仏身も、衆生の心中に現われる。
 無障碍遍=仏は身心共に無碍の活動であり、衆生の心に身心ともに遍満される。
 
▽ちなみに親鸞様は、「諸仏」を、普通に諸仏方と取られると共に、阿弥陀仏の意と解釈されている箇所がある。但し、法界身についての特別なご教示はない。

▽それでも、存覚上人は、他力回向のおこころとしてとっておられる。

「無碍の仏智は行者の心にいり、行者の心は仏の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず。これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想のうちに入りたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり、諸仏は弥陀の分身なるがゆへに、諸仏をば弥陀とこころうべしとおほせごとありき。」(『浄土見聞集』真聖全三・378)

(続く)

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