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聖語をいただく

 この集いの進行は、ぼくにはこれまでの真宗カウンセリングの関わりの集大成といってもいいものである。どれだけ参加者が安心して、自分の経験したことを、率直に口にだせることができるか。また出された声をどれだけ聞けるのか、そんな雰囲気作りを目指しているのだ。法話はないが、それ以上にぼくの態度や姿勢が問われる法座である。

 だからこそ面白い。やりがいもある。そして5年間で少しずつ改良されていって、称名念仏、黙想(沈黙)、そして語らいの後にお聖教を味わっていたが、前回から、そのお聖教を味わう時間を、大目にとることにした。

 1日目は和讃を1首ずつで、最後に「現世利益和讃」をすべて頂いた。

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし(正像末和讃)

弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし(正像末和讃)

男女貴賎ことごとく 弥陀の名号称するに
行住座臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし(高僧和讃・源信讃)

南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり(浄土和讃・現世利益讃)

 2日目は、朝座は源信僧都の「横川法語」、昼座は法然聖人の「一枚起請文」である。

 長い文章になると、皆さん不明な点けでなはく、ひっかかりが出てくるようだ。理屈が増えたり、昔の文章(古典)の理解の質問がでると、ぼくも教示的になってしまうのが反省である。ぼくとしては、二つのご文とも、煩悩一杯(妄念妄想の自性)の地金のまま、愚者と成って(というより愚者そのもの)、称名念仏申せようというご教示だと味わっていたが、皆さん、いろいろとわが胸ととらしたり、言葉の端々ひっかかったりと、苦戦しておられるよにう思えた。ぼく自身も、ながながと「正解」の解釈を述べてしまって、後味が悪かったのは反省材料である。

 それでも、称名念仏の後のこの聖語は響いてくるなー。

またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。臨終のときまでは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて決定往生疑あるべからず。「横川法語」

念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。「一枚起請文」

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