大阪支部報恩講~だまされている~
法話連続4日の第4日目は、華光会館での大阪支部報恩講。
お正信偈を勤行し、法話2席と、信仰座談会という、普段の支部法座の形式である。
古い華光誌を読んでいて、何気なく見つけた黒河氏の連載記事、「華光の法座」の一節を取り上げた。35年前の記事である。「草の根運動」という題の一節で、「だまされている」という小見出しの短文を材料にした。
「人はみな、だまたまいと外に向って用心をするが、肝心かなめの自分にだまされている。これほど始末に困るものはない。自分で自分にだまされているのだから、これは気のつく道理がない。虚仮は、真実に出会ってこそ、初めて自分の虚仮不実がわかる。「地獄はない。極楽はウソ」、そして「何か先によいことがある」と、みんな自分にだまされている。」
というように始まる。以下は、要約である。
では、何にだまされているのか。大会などの座談会でそう感じ、受付で皆さんのお姿をみて、そう感じる。それは「仏法がわからん」と言っていた、かっての自分がそこに座っている。それでも、「いつかは何とかなる。仏法は聞ける」と、自分にだまされて座っているのだ。現実に聞き開けぬまま亡くなった方や諦めた方だっておれらる。「もしも、私も聞けないのではないか」と、そこに心がいけば心中が穏やかではすまないのに、皆さん、静かに穏やかに座っておられる。自分にだまされていることに気付かないと、取り返しがつかない。現に自分の座っている足元から、火の手があがっているのだ。
では、どうして自分にだまされるのだろうか。
「いつも学問や知識、財産や相手などを問題しているからである。仏法の上ても、やれ安心や信心やと、いつもお話や対象物ばかりを「まな板」の上にのせて、それを自分の好きなように料理して、わが身につけることばかりで、ひともつ自分を「まな板」にのせたことがない、その罰である。
早く法の「まな板」の上に自分がのって、お浄土でもどこでも、阿弥陀仏のお好きなように料理してもらったほうが、賢明である。」
この頃の華光誌を読んでいると、こんな鋭いお同行がたくさんおられた。法座が引き締まるのである。最近は、華光でも、お慈悲や親の願い聞く、お念仏というお勧めが主流だ。別にそれはそのとおりなのだか、それだけ聞き手も、説き手も、自信がないのだろう。それで早く仕上げてしまいたいのである。
でも、このような厳しい文章に出会うと、心が踊る。自分を「まな板」をのせて聴聞するのは、別に未信者に向けた文章ではないのだ。
「お前、有り難い有り難いと言っているが、ウソやろう」と指をさして、ご意見。法悦を仮面を引き裂く文章。
皆さんは、どう聞かれますか?
| 固定リンク