聖典講座~定善(3)華座観・立撮即行
では何故、坐わったままではなく、立ち上がらずに居られなかったのか?
善導様のお言葉では、立即得生(りゅうそくとくしょう)と立撮即行(りっさつそくぎょう)の二つの意味を見ることができる。
まず、「立即得生」とは、立ちどころに即ち生じることを得る。
「弥陀、空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす」
つまり、「自力を心を翻して本願力を頼み、我が国に生まれたいと願うものは、立ちどこに、往生のうべき位につかせましょう」という、弥陀の本願を顕しているのである。
そして、「立撮即行」とは、立ちながら撮(と)りて即ち行く。
なぜ立ち上がられたのかを問答を設け答えておられる。その問いは、「正覚の弥陀なちば軽々しい振る舞いなどせずとも、正覚の蓮台に端座されたままでも、人々を救うことが出来るのに、何故、立ちあがられたのか」。それに対して、
「これ如来(阿弥陀仏)、別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば、娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く(立撮即行)、端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり」と。
つまり、阿弥陀様には特別な思いがあった。娑婆はまさに苦の世界、悪が満ち満ちて、苦悩に苛まれる世界であって、いままさに三悪道の火の坑(あな)に落ちているのが、韋提希(=私)の姿である。いま、釈尊の要請に応じて現われた阿弥陀様は、じっと座ってはおられず、いま立ち上がり、凡夫の私の前に足を運び、今すぐ救いあげねば間に会わないという緊急の大悲のお心であるのだと。それが立ちあがり私をつまみとり、ただちに浄土に連れて帰ろうという立撮即行の姿なのだと。
そのところを、伊藤先生は『大悲の呼び声』で次のようにうたっておられるのである。
「弥陀は正覚なりてより そなたの来たるをまちたれど
一劫たてでもまだ見えず 二劫たてでもまだ見えず
三劫たてでもまだ見えず 弥陀成仏のこの方は、
いまに十劫をへたまえり
お立ち迎えのみ姿を なんと思うてくれるぞや
極楽浄土の荘厳を なんと思うてくれるぞや
南無阿弥陀仏のお六字を なんと思うてくれるぞや
来応大悲の弥陀仏が 蓮台上に立ちたるは
炎うずまく三悪の 火坑にむかい臨々と
入りなんとする衆生をば おどろき救うすがたなり」
『大悲の呼び声』
講義では、この後、「第七華座観の位置づけ」(正報観か、依報観か)
また華座観についてが続くが、繁雑になるので、ここではもう略します。
次回は、12月16日(日)昼1時30分より
定善の第8観・像観に入ります。奮ってどうぞ。
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