聖典講座~定善(3)華座観・阿弥陀様の来現
『観経』は、韋提希夫人の要請に応じ、また末世の衆生のために、浄土往生の方法が段階的に説かれている。まず定善といって息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法をうかがている。ここも大きく、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)と、第八観~第十三観が正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)に分けられていく。その中で、第七(阿弥陀様の座られる台座)を窺った。
さて、依報観-極楽浄土(国土)についての観法には、仮観(この世界のものを手かがりにする方便観)である第一日想観、第二水想観と、さらにそこを手がかりに、真観(極楽浄土そのもの)である第三地想観、第四宝樹観、第五宝池観、第六宝楼観と続いていく。これはすべて愚痴の女、韋提希夫人の要請で説かれたのだ。それにしても、浄土の詳細な有りさまは、凡夫が観察するにはあまりには深遠広大で理解し難い世界だ。にも関わらず、身の程知らぬ(まさに無明)故に、釈尊に自ら要請して定善は説かれたものである。これは経典にないが、以上のお心から、ここまでの深遠な説法についていけず、号泣の疲労もあって、ついつい韋提希は居眠りし出したと、悟朗先生は教えてくださった。確かに、ぼくたちも第1観から6観を通して読んだけで、まったくついていけずに後半は居眠りする人も多かったのである。疲れてくるのだ。
ここで、場面は急転換するのである。
そんな様子をみられて、釈尊は、「諦聴、諦聴(あきららかに聴け、あきらかに聴け)」と告げられて、「私は、今、そなたのために苦悩を除く教え(除苦悩法)を説き示そう。そなたたちはそれをしっかり心にとどめ(憶持)、大衆のために説き明かすがよい」と、韋提希にこころこめて聞くように促されるのである。その声に呼応して、突然、阿弥陀仏が観音、勢至の二菩薩を伴って、空中に住立されるのである(住立空中尊)。それは光明(智慧-愚痴を破る)そのもので、詳細に観ることのできぬほどまばゆく輝ていたのである。
◎二尊一致(二尊一教)のおこころ
釈尊の声に応じて、阿弥陀仏が現われたことを、善導様は『定善義』に、
「弥陀、声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす」。
釈尊の「苦悩の法を説くぞ」の声に応じて阿弥陀様が来現して、韋提希が必ず往生するとこを自ら証明されたのである。それは、釈迦、弥陀二尊が心をひとつにし、互いに呼応しながら苦悩を凡夫を救うことを示されたのである。すなわち、
「まさしく娑婆の化主(釈尊)は、物(衆生)のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は、情を知る(その心を知る)がゆゑに、すなはち東域(娑婆)に影臨(ようりん・姿を顕す)したまふことを明かす。これすなはち二尊の許応異なることなし。ただ隠顕(釈尊が隠れ退き、弥陀が現われる)殊なることあるは、まさしく器朴(きぼく)の類(たぐん)万差なるによりて(衆生の根機がさまざまなので)、たがひに郢(えい)・匠(しょう※)たらしむることを致す」
※郢・匠=『荘子』に出る二人の左官と大工の伝説的名人のこと。衆生の機類も、力量もさまざまなので、釈迦、弥陀二尊の意(こころ)が一致し救うことを譬える。
親鸞様のご和讃『高僧和讃・善導讃』なら、
・「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」
という二尊が一致したご苦労てである。
では、釈尊の説かれた「苦悩を除く法」とは、なんであろうか? (続く)
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