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四十八願のこころ(18)~第三十五願

「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。」(第三十五願・女人成仏の願)

「もし私(法蔵菩薩)が、仏になるとき、無数の量り知れないほどの諸仏方の世界の女性が、私の名(南無阿弥陀仏)を聞いて喜び信じて(信心を獲て)、悟りを求める心を起して、女性の身であることを嫌ったものが、いのち終わった後に、再び女性になるようなら、私は決して仏とはなりません」

 皆さんは、この願を聞いて、率直にどう思われましたか? 

 第三十五願は、変成男子(へんじょうなんし)の願とか、女人往生の願とも言われます。
「女身を嫌う」「また女性に戻るようなら」など、今日の眼から見れば、明らかな女性差別の文章です。時代や社会を超え、一斉の生きとし生きるものを救いたいという弥陀の本願も、それが人間の言葉として説かれる時、社会的制約(古代インドの女性蔑視の思想)を受けざるおえなかったということでしょう。つまり「女性は絶対に仏に成れない」という根強い差別があったのです。

 しかしここでは、女性が仏に成ることを排除するのではなく、女性こそがお目当てだというお心、つまり十八願のお心を重ねて、女性に向けてお説きになったのだと、親鸞聖人は頂かれました。それを受けて、蓮如上人も盛んに女性が正客であるという『御文章』を書かれています。

 それでも、現代の私達は、たとえばLGBTの言葉に代表されるように、生れながらの性にとらわれず、各人が自由な性を選び、互いその違いを尊重して多様性のある豊かな社会を目指そうとしています。その眼から見れば、十分に配慮せねばならない点あります。差別を再生産する根拠にしてはいけないのです。

 異なる性を差別する迷いの根は深いものです。しかし、そもそも今生だけで、「男だ」「女だ」と威張っても、前世や来世で、同じ性であるわけがなく、結局、オスかメスかで迷いを繰り返しているのですから、最後は必ず我が身に返ってくるわけです。それが分からないのが迷いの恐ろしさでもあります。

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