沖縄の旅(2)~ひめゆりの塔
白人の姿の他は、観光客がまばらだった海軍司令部壕から、ひめゆり塔へ。ここにくると周辺も有名観光地の風情となり、ベタな土産屋が並ぶ。
小説や映画であまりにも有名な「ひめゆりの塔」だが、「塔」といっても、実際は小さな石碑が立っている。外科壕跡を挟んだ奥にあるのは慰霊碑(納骨堂)だが、いまではそちらがメーンに思われているようだ。
海軍司令部壕の展示で、1950年の素朴な石碑の写真を見た。ほんとうの意味での慰霊の碑である。(右の写真→)
ひめゆり塔は、沖縄戦末期に陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つが、ひめゆりとは、学徒隊員の二つの母校の学校誌に由来するという。
今回、このような慰霊碑が、最後の組織的激戦地の南部には非常に多くあることを、初めて知った。この悲劇が何度も映画化されありして、沖縄戦の過酷さや戦争の悲惨さを象徴するものとして、もっとも有名となったということだ。
1945年3月、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒と職員、計240名は、陸軍病院に看護要員として従軍。激しい戦闘が続き、防衛戦が南部に撤退。陸軍病院も回復の見込みのない負傷兵置き去りして、分散して南部の地下壕に潜むも、戦局が絶望的となり学徒隊は解散を命じられる。しかし、既にアメリカ軍に支配され、周辺も激しい砲撃にさらされていたため、解散後に多くの生徒が若い命を無残にも散らしている。この第三外科壕では、壕にいた大半が爆撃で死亡し、脱出後に銃撃死たものも多く、生き残ったのはわずかに5名(生徒が4名、軍医が1名)のみだったというのだ。
「ひめゆり平和祈念館」は、生徒一人一人に出来限り焦点を当てた充実した内容だった。単なる多数の数字だkの犠牲者ではなく、その一人一人が尊いかけがえのない命であったことが覗える、丁寧な
展示に感銘を受けた。
時間をかけてゆっくりと見学していたが、途中で、修学旅行生たちで大混雑する。 高校生の彼、彼女たちはひめゆりの学生たちと同世代だ。どんな思いで見学していたのかはわからないが、彼女ら無邪気なの姿に触れると、平和の尊さと同時に、その脆さも強く感じさせられた瞬間だった。
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