泉佐野の寺院布教~「PPK」か「NNK」
高齢化が進み、「PPK」という言葉が使われている。「ピン・ピン・コロリ」と、最後まで元気で死にたいという願望だ。逆の言葉が「NNK」で、こちらは「寢ん、寢ん、コロリ」と、寝たきりなり、認知が進みということである。凡夫の願望は「NNK」は、なんとしても避けたい。子供たちに嫌われたり、みじめな姿になるのではなく、最後まで元気で、頭もしっかりして、コロッと死にたいというのである。しかしである。Pだろうが、Nだろうが、K(コロリ)と死んでしまうことには代わりはない。「死」は避けられない。では、そのことはどうなるのか。
「終活」という言葉は、随分、浸透してきた。どうせ避けられない死なら、元気なうちに、ちゃーんと身辺整理し、葬式のことも自分で考え、望むべき死に方をしよう。最後まで自分らしくあって、遺された子供たちにも迷惑をかけないようにしたいという。結局、死ぬ間際まで心休まることもなく、用意周到なことである。
ではとれでは、「終活」も、また「PPK」でコロリと理想どおりの終焉、死にざまを迎えたとしたら、それはそれで終わりなのか。
後生の一大事を心にかけて聴聞しないと、すべてこの世の中の生きざま(今生ごと)の話で終わってしまうのだ。どこまで伝わったかわからないが、いま1歩、踏み込んだご聴聞の要をお話申し上げた。
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