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10月の 「仏書に親しむ会」

  「仏書に親しむ会」は、「非僧非俗のこころ」に入って、「専修念仏への弾圧」のところを読む。

  念仏停止(ちょうじ)というが、比叡山でも念仏修行はなされている。ここで停止されたのは、法然様の「専修念仏」である。ただ念仏一行で、その他の行、(行としでき)菩提心さえも否定し、老若男女も問わず、遊女や盗人までが帰依するのだから、旧仏教側、真面目に修行している僧も、許せなのは当然だ。

 「ではなぜ、念仏一つで救われていくのですか」、皆さんに問う。お念仏にどんなお徳があり、またなぜ、念仏一つが選ばれたのかである。

 すると、急に静かになって反応がない。いつものことだが、少し変わった角度から(別に変わっていないが)質問すると、皆さん、途端に静かになる。決して、試験があるわけでも、正解を覚えることでもない。しかし、ここはよくよく考えてもらいたかった。「ただ有り難い、結構だ」というだけでなく、「念仏一つ」のおいわれを聞いてもらいたのだ。

 すると、「願行具足の南無阿弥陀仏」ですか、と応えてくださる。が、その後はでない。

 「勝・易の二徳」は、聞いてことがありませんか? と尋ねると、皆さん、ああという顔をされる。いわれるとなるほどと思う。

 法然様は、お念仏は、本願の行であるからだといわれている。私が選ぶのではなく、阿弥陀様が選擇された本願の行なのである。法然様が、他力念仏に出会うきっかけは、善導様の散善義のご文であるが、その結びは、「順彼仏願故」とある。阿弥陀様の本願に順じていく故だというである。人間の智慧や自力に従うのでない。たとえ権力者に批判されようとも、それは人間の世界、自力の世界のことだ。人間の言葉ではなく、阿弥陀様に順じてさせていただく身となったことが有り難い。

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