『仏敵』の旅(3)野口道場
この旅のメーン、大和高田市にある「野口道場」へ。大型バスが入らない。世話役の経営される工場(紡績関係)に駐車し、細い路地を歩く。すっかり街中になっているが、往時を偲ばせる細い路地
は健在だ。途中、野口公民館の前に、「南無阿弥陀仏」の碑と阿弥陀堂の小さな祠がある。これは『仏敵』には登場しない。ただ、紡績工場の5時知らせるサイレンという記述がある。このあたりは靴下の町である。もしかすると今の工場かもしれない。
↑民家の中に野口道場が見えてきた。概観は普通の家と変わらない。門をくぐる。『仏敵』では、「土塀続きのみそぼらしい門」となっているところだ。
↑小さな前庭に「釈尼妙芳」と刻まれたおよし同行の墓が出迎え。案外新しく、昭和46年に建立。
そして、たくさんの尼講の皆さんもお待ちくださっていた。彼女たちはいまも変わらず毎月18日が、尼講の集りがあるという。尼講の皆さんの話では、その日は、およしさんとの関連があるのでのはといっておられたが、そのあたりは不明だという。残ながらお墓と建物以外、教えは何も残ってはいない。
↑滞在50分間ほどの予定だったが、往復の行程があって実質30分ほどしかない。すぐに勤行を始める。皆さん勤行に力が入る。娑婆では、華光のルーツはここなのだ。狭い道場は、40名の同人で一杯になる。隣の間には、尼講の皆さんが座って一緒にお勤めされた。その後で、法話の代わりに、『仏敵』の一節をいつくか読ませてもらった。
↑最初、伊藤青年が尋ねた野口道場は、屋根にペンゾン草が生え、破れ果てた道場は化け物屋敷だと描写されている。
↑ところがきれいになっていて驚いた。ペンペン草は生えていなかったが、20年前は薄暗い道場に、やたらと立派な仏壇が金色に輝いていた。実は、今回、耐震性の問題もあって、役割を終えてもうなくなるのではと心配していた。ところが、瓦も新しく、道場もきれいになっている。平成18年(12年前)12月に「平成大修復」を終えたというのだ。
皆さんでお護りくださっているのはうれしかった。中には、想像よりもきれいで、ちょっとイメージが異なったという人もあった。
「泥まみれの縁側の板」もきれいに磨かれている。右手あたりに井戸があったか?↑
大正7年頃、伊藤先生が仏教大学(現龍大学)の2回生の春休みの出来事だから、20~21歳の時である。いまから100年前の出来事だ。『仏敵』では、まだ電燈工事か進捗せずに、薄暗い本堂にはランプが灯り、暖は火鉢とある。いまはエアコンも設置。
↑伊藤青年が『観経』定善(第八観・像観)のごとく、「水流・光明」されたお仏壇。いつ訪れてもきれいにお荘厳されている。
↑伊藤青年が休んだり、ご示談の場となって別室は、物置部屋。
みんながうれいしそうに眺めるのを、地元の人々は不思議そうに見ていた。当時は、ここからも外に出入りできたことになる。
↑奥の柱は年季を感じさせる。
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