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2018年9月の25件の記事

九州支部法座 IN 大分

  今月の九州支部法座は、大分法座。非常に強い勢力の台風が接近中で、開催も心配されたが、結局、予定どおり開き、無事終えることができた。

 参加者は多くなかった。でも、じっりく座談会をというメンバーでもなかった。座談中心にしてもよかったが、皆さんに相談したところ、特に反応もなく、法話(講話)中心の法座に切り換えた。高齢者の方が多いと信仰座談会は難しい。皆さんの声が聞こえないからだ。マイクを使えば解決するという問題でもない。座談会の慣れもあるし、ただ自分の考えを一方的に話しImg_8172たいだけの方もいるかたらだ。そんな人でも一対一ならいいのだか、多人数の車座になったこのことは、課題として残っている。これには、法座を推進していく人が、聴く力を身につける必要もあろう。

 というわけで、今回はご法話(講話風)を中心にした。浄土三部経Img_8176のあらましである。もちろん、すべてを話す時間はないので、そのダイジャストであったが、通して観ることで、それぞれがもつ役割を味わった。これは、今号の華光誌の巻頭言にも触れていることなので、それをご精読いただく有り難い。

 また九州支部のいいところは、夜座が懇親会になるところで、これは楽しくて◎ 。座談会よりもりあがるか。

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「日本の国体と憲法九条」~白井聡氏の講演

Img_8155   西本願寺系の「念仏者九条の会」と「大谷派九条の会」の合同全国集会が、七条油小路の「同朋研修センター」であった。

 講師は、京都精華大学の白井聡氏。永続敗戦論で名を馳せた新進気鋭の政治学者である。今月、彼も出演している『国家主義の誘惑』というドキュメンター映画を見たところで、講演を楽しみにしていImg_8153た。

 テーマは、「日本の国体と憲法九条」と題した講演。
 
 国体の維持は、戦前なら天皇制であり、それが戦後、国体維持のために、憲法九条とアメリカ従属の道を歩むことになるのだが、結局、天皇よりアメリカがその上位にきた必然的な背景を聞かせていただいた。敗戦直後に、アメリカにつくか、ソ連につくか(中立もあるImg_8154が現実的は難しい)の中で、アメリカ側に付いことはある意味よかったかもしれない。世界最大の経済大国、軍事大国、超大国のアメリカに依存しない国はないといってもいいのだが、日本の従属はきわめて異常であり、腐りきっているというのだ。属国扱いで、日本に主権がないにもかかわらず(沖縄の基地題吉を見ればよくわかる。いくら民意でNOと示されても別の力が働く)、とても自由で、民主的な国だと錯覚し、自分の力で知ろうとしない、今日の日本人のありようを「蟻以下だ」と断罪されるなど、歯に衣着せぬ言動が、なかなか心地よかった。

 今年も、いろいろな講義や講演を聞いてきたが、浄土真宗の集いなのに、もっとも今生的なきな臭い話題だったのが、なんとも妙で、また面白いところ。このブログでの「カテゴリー」も、法座や法味ではなく、日記・コラムの項目にした。

 

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メガネ

 2カ月ほど前、懇親会で、元連れ合いが持参したブラジルの強烈なお酒を呑んでいたら、突然、メガネが折れた。おお、ブラジルからの呪いなのか。びっくりしたが、代わりのメガネで過ごしていたが、どうも片方が見づらい。PCを見たり原稿をチャックすることが多いので、緩めの度数にしてもらっていたからだ。
 最近は、コンタトクが主になっていることもあって、10年ぶりぐらいにメガネを作り直すことにした。前は京都北山にあるOBJというお店で作ったものだが、今回は別のお店を探した。

 かなり目が悪い。当然、レンズも厚くなるので、薄型レンズに比例して値段も張るのは覚悟していた。

 ショックだったのは、この年でまだ目が悪くなっていることだ。さらに、使わないと目の筋肉もサボるということだ。片方が緩い度数だったので、そちらの目が怠けていて、ほとんど片方だけで見ていたという。筋肉もサボるが、目もサボるのか。これに、またショック。

 完成したメガネを受け取りに行き、かけている。が、家族も事務の皆さんは何も言われない。母には、「メガネを取りに行く」と言って出かけたので、母に、「どうかな」と尋ねる。「なにが?」というので、顔を突き出すと、「散髪したのか?」の返事。「メガネが変わったろう?」」。「ハー、そうか?」と、まったく気付いてもらえずに、またまたショック。

 「それだけ自然ということや」とは連れ合いの弁。ものはいいよう。まあ、人のことなんかそんなもんなんですよね。
 

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彼岸のお参り

お盆参りを止めて、彼岸にお参りを依頼された。生老病死の苦しみが続いてる。30代でご主人を亡くされ、女でひとつで育てた娘さんは20代で半ばで病死された。今夏、息子さんのお嫁さんが長年の闘病の末に逝去された。まだ40代だった。残された子供さんも幼い。無常迅速、死の縁無量の現実を受け続けれている。早く、南無阿弥陀仏の真実に出会ってもらいたい。別れと悲しみばかりの虚仮不実の人生るにこそ、変わらない南無阿弥陀仏の真実が光輝く。その南無阿弥陀仏に出遇いが待っているのだ。短いご法話のあと、法座にお誘いをする。こちらで少しでもご縁を整えることは出来たとしても、その先を聞くか、聞かないのかは、ご本人の問題だ。その一歩を踏み出すために、阿弥陀さまの十劫お待ちのご苦労がある。

3日間、違う形だが、容赦ない死苦の現実と、愛別離苦の悲しみをまざまざと見せられた。2つのお家は、ぼくより若い方の死である。だだ、それが遺れた方々の仏縁、聞法につながるとは限らない。だからこそ、今あるご縁が圧倒的に尊いのである。南無阿弥陀仏

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広島支部法座~愛別離苦の悲しみ~

このところ、参加者が少ない。それでも、初めてお参りくださる方もあった。しかし少ないことで、信仰座談会は印象的なもになった。

身近な方の死を通して、深い味わいが出てきた。この一年の間に、父親、そした今回、兄弟と立て続けに亡くされた。

それにしても家族ほど、温かく、有り難く、そして厄介で、不思議なものはない。特に、親子関係は複雑だ。だからこそ、愛別離苦の悲しみがある共に、怨憎会苦の苦しみもある。愛憎が表裏一体となる。中でも、身内に厄介な困った人がいると、なおさらだ。他人なら、会わなくてもいいことが、親子、兄弟姉妹はそうはいかない。

最近まで何度も厄介な相談を受けてきた。何度か、ご本人も会った。「ブッダ」でも呑んだこともあれば、法座にお参りくださったこともある。その方が、数日前、突然の交通事故での即死されたという。まだ壮年の早すぎる死である。同時に、故人の人生の歩みに心をはせる時、胸が熱くなる。あまりに強烈で、家族にも大きな爪痕を残されている。

しかし仏法の尊さは、今生の肉親の愛情や慰めに止まらないことだ。事実を事実として隠さず教え、その場に至っても、自分中心の心を教えてくださる厳しさがある。同時に、ほんとうのお救いの世界が待っているのだ。それが残されたお母様へ、「どうか仏法聞いてください」との熱意に昇華されて届けられていった。南無阿弥陀仏

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三回忌法要

   豊中の服部に向かう。ちょうど2年前の9月に、ご示談に窺った。皮膚病に苦しめされ、精神的にも生きる気力を失っておられた。しかし根にあるのは、この世の問題ではく、後生の一大事の不安であった。子供の頃から、横田慶哉師の法脈のご縁に連なっておられたのだ。残念ながら、一足飛びとはいかず、次回のご示談をお約束してお別れした。しかし、「またね」の「また」はなかった。次に連絡があったのは、一カ月半ほどしたころ。ただご示談の日程ではなく、葬儀の依頼だった。六十代後半での、突然の訃報。残された皆さんには、心の整理をつけるのがたいへんだっただろう。

   それから、二年。早くも三回忌も迎えた。愛別離苦の逆縁として、残された二人のお嬢さん方々が、仏法相続をしてくださるようになったことだ。それは、お母様の願いでもある。近しい家族だけでの年忌。『子供の聖典』でお勤めし、そのあとお『正信偈』を勤める。30分の予定だった法話は、40分ほどになってしまったが、残された遺族の皆さんには、故人が聞かれていた仏法の一端をお伝えしたかった。それは故人の願いは、同時、阿弥陀さまの願いでもある。

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『カメラを止めるな!』は面白い

映画『カメラを止めるな!』を観た。

https://kametome.net/index.html

300万円の低予算のインディーズ映画が、異例の大ヒットで、今年の映画界の最大の社会現象になっている。

もう各種メディアで盛んに紹介されているので、ストーリーはいいだろ。

とにかく面白い! 大声で笑ってしまった。

ゾンビ映画の撮影シーンが、37分のノーカットで描かれている。手持ちカメラで振れたりする。妙な間や音が入ってくる。おかしなカメラワークに、妙な設定や動きがある。出来の悪い学生映画のようだが、後半、逆に、これが伏線となって、ドンドン氷解していくのだ。前半に違和感を感じれば感じるほど、後半が大爆笑という構図に、完璧にやられた。ただ面白いだけでなく、映画作りの困難さや映画愛に溢れている一本。

すべてタネ明かしが分かったとして、もう一度みたたらどうなるのだろうかな? 

ところで、京都新聞の紹介記事では、この監督(ほんとうの)が、高校生の時に手作りの筏で琵琶湖横断を試みて、行方不明になった時の実際の記事が掲載されていた。当日は、迷惑な無謀な話でしかないのに、これがこの映画「不可能とと言われれば燃える」の原点みたいな、、。掌を返しもいいところ。

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真宗カウンセリングの客観的規定

 西光義敞先生の『育ち合う人間関係』の中で、「真宗カウンセリング」の成立を読んでいる。

その終盤に差しかかり、「四、真宗カウンセリングの客観的規定」である。これまで主観内部での真宗カウンセリングを、最小限の客観的規定をされる、大切な章である。担当者がいなかったので、ぼくがまた担当する。その要旨である。      

~真宗カウンセリングの底~(P182~186)

 主観内部の「真宗カウンセリング」から、客観的規定の最小限の三つの特性を挙げらる章である。

 その「真宗カウンセリング」の第一特性は、
 「真宗カウンセリング」は、カウンセラーが真宗の立場に立って行うカウンセリング。すなわち、真宗の教法に帰依する心を根底において行うカウンセリングである。

 次に「真宗カウンセリング」の第二特性は、
 「真宗カウンセリング」は、「法」(Dharma)を根底においた、あるいは「法」中心のカウンセリングである。

 この二つを押さえた上で、では、真宗における「法」とは何かが簡潔に述べられる。
 法中心のカウンセリングは「仏教カウンセリング」に通じる特性であり、それぞれの「法」のとらえ方で、特色ある仏教カウンセラーが誕生することになる。
 その中で、浄土真宗では、法はは「名号」、つまり「南無阿弥陀仏」という本願の名号である。その名号を聞き、疑心ないのが信心。摂取不捨の利益で、必ず涅槃の悟りを得る身となるのである。
 
 では、「法」に生きる真宗念仏者とはどんな存在か。(図1参照・P184上段)
 真宗念仏者とは、「本願を信じ、念仏を申せば、仏と成る」との他力真実の旨を信じ受ける身となるのであり、如来の願力、大悲に生きる身。すなわち、たとえ一人で居ても、「如来と共に生きる存在」「自己の実存の根底において自己を超越した仏に支えられた存在」「有限・相対の自己が無限・絶対なものと出会い、関わり生きる存在である。つまり、人格の内面に、自己(有限・相対)の次元、仏(無限・絶対)の次元を合せ持つ存在である。

 では、その真宗カウンセラーとクライエントの関係はどうなるのか。(図2参照・P184下段)
 まず、クライエントが、真宗の示す仏と無関係の意識状態の時の真宗カウンセリングでは、
 クライエントは、カウンセラーとの人間関係のみしか意識されないていない。
  しかし、カウンセラーは、人間関係の次元でクライエントと向かい合うと同時に、自己の内面において仏と関係を感じいる。その意味で、二重関係の中にいるといえるのである。
 
 そして、ここから「真宗カウンセリング」の第三特性が導かれる。(P188)
 つまり、「真宗カウンセリング」とは、相対的な存在である自己と他己との関係、相対的存在である自己および他己と絶対的である仏との関係、という二重関係にあるカウンセリングというのである。

 最後の詳細は、来月の月例会に持ち越し。10月17日(水)夜7~9時

 先月から、参加者の顔ぶれが代わって、雰囲気も一変。かなり緊張感もある、しんどい集いになっている。でもこれまでお聞かせいだいたことの凄さを教えられている。カウンセリングの世界においても、ほんとうにすばらしいよき師にに出会わせてもらったことを喜ぶばかり。

 

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教行寺報恩講

Img_8122 大阪支部の翌日は、教行寺報恩講のご縁。

『仏敵』の旅で訪れた大和高田市に近く、高速ICなら隣接していたのに驚いた。野口道場や当専寺は、どこか遠い(憧れもあって)存在であるが、毎年、お邪魔する教行寺の方が物理的な距離(ほんの少しだが)があるのに、グーンと身近に感じられる。

 Img_8138そんなこともあって、今回は、朝座から、後生の一大事と廃立の2本柱について、『仏敵』を通してお取り次ぎをさせていただいた。同じ奈良県の近くに、こんな妙好人がおられたことを知ってもらいたかった。そしてそれは特別なことではない。およし同行は、一文不通の尼さんである。学問や知識はなくても、信の一念に貫かれているのだ。それは了妙さんにも同じことがいえる。しかも了妙さんは蓮如上人のゆかりであるが、教行寺もまた蓮Img_8123如上人のご旧跡という縁がある。要は、信心を喜ぶのは、特別な人でも、学問や知識があるなしではない。皆さん、ひとりひとりの問題である。なぜなら、誰の人にも後生の一大事が迫っているからだと。

 そして、今回、いちばん有り難かったのは、信仰座談会の提案をいたたいたことだ。昼座二席の後、本堂から講師室に場所を移し、有志の方が車座に座り、皆さん一言ずつは発言くださったのだ。華光の皆さんも、高知、京都、大阪からお参りがあって、ご門徒さんと一緒に座ってくださる。ほとんどが顔見知りだが、初めての方も2、3名おられた。最初は、遠慮して、次の間の陰に隠れておられたのが、やっとのことで見える場所に座ってくださり、発言もしてくださったのはよかった。

 時間は40分ほどたったが、それぞれが自分の聞いているところをお話くださった。ここに自ら座られる方は、かなりご教化の行き届いたお同行さんで、感心させられたのだ。まだまだ皆さんとご一緒にとはいかなくても、ひとりでも多くの方のご縁が深まっていくことを願っている。その意味では、少しくさびを打たせてもらえたのかなー。南無阿弥陀仏。

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大阪支部法座~四無量心~

大阪支部だか、奈良の生駒市での家庭法座である。いつもはご家族や一族の皆さんがお参りくださるが、残念ながら今日は出席が少なかった。
7月の大阪支部法座では、「仏さまとは?」と対話形式でご法話をしたが、今回は、その続編といってもいい。

阿弥陀さまとは、無量寿(いのち)と、無量光の如来さまであるが、それは、時間的(三世)、空間的(十方)にも無量で限りがないというのと同時に、慈悲と智慧に限りがない如来さまである。

また、如来さまは四つの量り知れない広大な御心、利他の御心をお持ちが無量にあり、無量の人々を済度されるという。すなわち、

1、慈(いつくしみ)無量心は、衆生を友のように慈しみ、楽を与えよう(与楽)という心が無量。

2、悲(あわれみ)無量心は、衆生の苦しみに対して、その苦を除こう(抜苦)という心が無量。

3、喜(よろこび)無量心は、衆生を幸福にする喜びであり、その幸せを共に喜ぶという心か無量。

4、捨(平らかな心)無量心は、すべてのとらわれ、執着を捨てる心が無量。

である。慈と悲のこころはよく耳にするが、「喜」という心が無量であるところが有り難い。私達でも、目の前で苦しみや悲しみにある人を同情したり、あわれみもつことはあるかもしれない。しかし、簡単なようで、他人の幸せを我がことのように本心から喜ぶことは難しい。まして、同等のものが相手の時は、なおさらだ。必ず、妬みや嫉妬の心が渦巻く。まさに、「妬」無量心が凡夫である。

それが慈無量、悲無量、そして喜無量の心あるためには、自らがすべてのとらわれ、執着を捨てる心が無量でなければなせないのてある。執着を捨てるのは、衆生のため慈悲の心から、喜んで、そのお命までも捨てることが無量であるのだと味わっている。

まったく私には微塵もない心である。その無量の心を、南無阿弥陀仏に封じこめて廻向くださるというのが、阿弥陀さまの大慈悲心。そのことを「六牙の象」のたとえでお話もうしあげた。

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華光誌編集作業

 無事に華光誌が印刷所に渡って、ホッとしいる。

 2週続けての宿泊法座で準備もたいへんななか、華光誌の作業にも追われた。

 3号ぶりに、事務所で華光誌の版下作製だ。慣れない作業であったろうが、新人のIさんが頑張ってくれて、大いに助けられた。最初から外注だと、今の作業の3倍の手間と、時間と、そのうえ費用もかかるのだ。部分部分の作業にならずに、完全版の全体なってから、3~4回のやりとりをせねばならない。しかも細かな指示もいちいち文字にする必要がある。それでいて、カットひとつ、文字サイズや字体、レイアウトの位置など、細かな点ほどうまく伝わらない。

 Iさんは、今回が初の編集作業だ。早めから開始し、頁も少し薄目にした。うまい具合に夏休み中で、作業は順調すすみ、予定どおり印刷所に渡すことができたのである。

 誌上講話は、悟朗先生の正信偈講義の第6回目。体験記は、3名だが、新連載の方は自らのイラトス入りで面白い。その彼女が、華光誌の他のイラスト(カット)も書いてくれた。ありがとう。記事は全体には小粒だが、パンチの効いたものもあるかと思う。
 小生の巻頭言は、浄土三部経の役割と、法座の構造を組み合わせてものである。その一部を、このプログにも載せている。

 まだ残暑が厳しい8月末からの作業だったが、もう新年号の年賀交換の案内も同封されている。

 順調なれぱ、9月28日(金)には発送の予定である。乞ご期待。

 

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部屋の隅々まで

 台風で延期になった修繕業者の説明会がある。

 ご多忙の中、広島から設計士のM先生が来館。午前と午後に、別々の業者が、華光会館を見て回られた。屋上は屋上で、建具は建具という具合に、それぞれ3、4名の専門家を連れて回られる。

 ここに住んでいる身としては、少しでも片づいたきれいなところを見てもらいたいのだが、そうはいかない。むしろ、汚いところや壊れているところを念入れ写真に収めれる。押し入れの中も容赦なしだ。いつものように連れ合いは、散らかったものを押し入れに収めたり、隠したり、何かを被せて、急場をしのごうとしたが、逆にそこが先方のみたいところでもある。別に部屋の片づけ具合を調べにこられのではないのだが、やはり散らかっていると恥ずかしいものである。

 M先生が、詳しい説明し、丁寧に質問に応えてくださった。専門家同志でないと、素人はわらかないところも多い。結局、お昼を食べてもらう時間もなく、夕方までかかった。まだ少し細か所は別日程で、確認にこられる。

 罪業と同じで、隠しきれないということだ。いや、そこがお目当てなのだ。

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『観経』~正宗分~定善の概観(3)

  定善十三観のうち、正報観(阿弥陀仏、菩薩)である。

8第八観・像観…第八観から十三観までは、正報観である。宝座を観じたなら、その主である仏を観想するのである。それは仏が法界身であるからだ。しかし、いきなり阿弥陀仏を観想は難しいので、まずは端正な仏像を 観念する仮観が説かれていく。ここで『仏敵』で伊藤先生が拝まれる「水流光明」が説かれる。

9第九観・真身観…いよいよ阿弥陀仏の真身を観想するもので、定善の中心。
 念仏の衆生を摂取不捨(摂取して捨てたまわない)に仏意に達するのである。
 「光明遍照・十方世界、念仏衆生・摂取不捨」

10第十観・観音観…阿弥陀仏の両脇士のうち、まず左方の観世音菩薩観想する。
 阿弥陀仏の慈悲を顕している。

11第十一観・勢至観…次に右方の勢至菩薩を観じる。阿弥陀仏の智慧を顕わす。
 阿弥陀仏の化益の全きことを体認せしめるのである。

12第十二観・普観…以上、浄土と仏・菩薩を次第順序して観想してきたので、ここでは普(あまね)く合せて観ずると共に、自分が救われてその浄土に往生する想いをなす「自往生観」となる。その想いの行者のところに、常に観音・勢至等の諸菩薩が来たり摂護する。

13第十三観・雑想観…以上の諸観を最後に総合して観ずる。そして、仏身の大小真化を観ることも、行者の意楽(いぎょう)に従って自在である。
 このような観は、凡夫心力に及びところではなく、阿弥陀仏の宿願力のよることが説かれていく。
 宿願力=阿弥陀仏が法蔵菩薩としておこされた願を宿願(昔の願)といい、その願が完成し,願い通り衆生済度する働きを宿願力という。

 10月からは、詳しく中身を窺っていきます。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2018/detail/10/seiten2018-10.htm

 

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『観経』~正宗分~定善の概観(2)

 まず、定善十三観のうち、依報(国土)観である。

1第一観・日想観…仮観。思いを西方浄土にかけるために、日の沈む方向を正視させる。浄土の真境を直ちに観る前段階で、この世界の日没所を借りて西方浄土の方向を教えるので、方便の観。

2第二観・水想観…仮観。娑婆の水平線を観て、水が氷となって透きとおり、瑠璃 の光りとなることを観想する。そこから浄土の大地が平坦であることを教える。 日想観と同じく方便の観。浄土が、平等普遍の徳があることを示している。

3第三観・地想観…この第三観から第七観までが、直ちに浄土の依報(国土)の荘厳相を観想させる真観となる。先の水想観を手がかりに、浄土の七宝の宝池は、清らかな瑠璃のように美しく、一点の曇りなく大地の底まで光り輝いていることを観想させる。

4第四観・宝樹観…浄土の宝樹を観ぜしめ、浄土の地上荘厳のすべてを観想させる。

5第五観・宝池観…浄土の宝池を観ぜしめる。宝池に流れる水の声は、悟りの法を 説き、水の光から生ずる百宝の色鳥は、常に念仏・念法・念僧の讃嘆する説法。

6第六観・宝楼観…浄土の宝楼を観ぜしめる。宝楼の中の無量の天人が、自然の音 楽を奏で、その音は虚空に満ちて、念仏・念法・念僧の讃嘆する説法となる。

7第七観・華座観…宝樹・宝池・宝楼とひろく浄土の荘厳を観したから、浄土の主たる阿弥陀仏を観想するために、仏の宝座(華座)を観想させる。ここまでが、依報(国土)観であると、善導様ご覧になられた。
 ここで、釋尊が「苦悩を除く法を説こう」と述べられると、突然、阿弥陀仏が韋提希の前に姿を顕される(住立空中尊)。

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『観経』~正宗分~定善の概観(1)

 スクリーングを午前で終えて、午後からは通常の聖典講座である。 ここから参加者が増えて、いつもよりお参りが多かった。 かなり堅い話が続くので、興味のない方は、読み流してくださって、結構です。

 『観経』も序文、発起序七縁が終わり、正宗分(本論)に入った。韋提希夫人の要請に応じて、浄土往生の方法が段階的に説かれていくのである。

 ここを善導様は、大きく(1)定善十三観と(2)散善三観(九品)とに二分科されている。
(1)まず、定善十三観とは、息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想 する十三の観法で、中心は、第九観の真身観(阿弥陀仏の相好を感ずる)である。
(2)続いて散善三観(九品)、精神統一が出来ない者の行で、廃悪修善(悪を廃し、善を修める)が説かれている。『大経』の三輩(上・中・下)段に対応し、さらにそれぞれを、上生・中生・下生の九品に分類する。発起序七縁の「散善顕行縁」では、三福(世・戒・行)として散善の行が明らかにされている。それで、三福九品ともいう。最後の下品では、悪人のために念仏が説かれていくのである。

 そのうち、今日から(1)定善十三観になるので、その概観を窺うことにした。

 この定善十三観であるが、聖道諸師方と善導大師の分類の相違がある。
 善導様は、正宗分を定善十三観と散善三観(九品)に分類されている。しかしそれまでの聖道の諸師は、十六種類の観法として捉えていた。散善それぞれに「これを上輩生想と名づけて、第十四の観と名づく」「これを中輩生想と名づけて、第十五の観と名づく」「これを下輩生想と名づけて、第十六の観と名づく」と説かれているからである。それを第十二観(普観)が、自身の往生を思い浮かべる「自往生観」であるのに対して、この九品段を、他の衆生が往生する姿を浮かべる「他往生観」だと見られたのである。
 それに対して、善導様は、定善十三観までは韋提希夫人の要請に応えた説法で、その行に耐えられない凡夫のために、釋尊自らが散善を説き開き、序分の「散善顕行縁」で三福(世・戒・行)を述べ、そのありさまを詳細に知らせるために九品に分類されたとご覧になった。それで、定善十三観と散善三観を二分科されているのである。

 さて、観察(かんざつ)行は、
天親菩薩は、五念門に第四番目に観察門を、
善導大師は、五正行の第二番目に観察正行を、それぞれ説いておられるように、浄土の行法としてたいへん重要なものである。

「止観」とは、心を静め、疑惑に心を見出されることなく集中して、仏や浄土を観察することで、仏道修行の中心だ。天台宗では「摩訶止観」と呼ばれ、根本教義でもある。つまり、。
 止-梵語シャマタ(sanatha) 奢摩他=作願・定
 もろもろの心の邪念や雑念、思いを止め、心を静かにひとつの対象に集中し、
 観-梵語ヴィパシュヤナー(vipasyana) 毘婆舎那=観察・慧
 正しい智慧を起して、対象(浄土や仏)を観るのである。

そんなことを踏まえた上で、定善十三観の概観した。これは、依報観(浄土)と、正報観(仏・菩薩)に二分科されるが、それぞれに、仮観(方便の観)と真観がある。それを分類すると以下のようになる。

           ー仮観ー第一観・第二観(方便の観)
      依報観
           ー真観ー第三観~第七観
定善十三観
           ー仮観ー第八観    (方便の観)                 
      正報観
           ー真観ー第九観~第十三観
 

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浄土三部経の役割

  聖典講座スクリーング法座は、浄土三部経の役割に触れた終わった。

 浄土真宗の根本聖典、正依とする経典は「浄土三部経」-『仏説無量寿経』(大経)『仏説観無量寿経』(観経)『仏説阿弥陀経』(小経)である。
 親鸞様は、この三経に顕説(表に見える立場)と、隠彰隠された真意)の意があるとご教示くださった。
  まず顕説、表に見える立場では、
『大経』は18願の他力念仏往生
『観経』は19願の自力諸行往生
『小経』は20願の自力念仏往生
と、三経に真仮の差別があると見られたのである(三経差別門)。

 しかし、隠彰(隠された真意)の立場からは、
『大経』が18願を勧めるように、
『観経』も自力諸行を捨てて他力念仏に誘引し、
『小経』も自力念仏から他力念仏を勧めるので、
三経が一致して、第18願の立場で一つの意だと見られている(三経一致門・一意門)。

 しかも真実の立場で一致した三部経には、それぞれの役目があること詳しくお説きくださったのは、覚如上人のご指南である。すなわち、
『大経』は法の真実を顕し、
『観経』は機の真実(法の目当ては誰なのか)を顕し、
『小経』は機法合説証誠(機と法を合せて、真実であることを証明する)の立場である
これが三経一致門・相成門である。
 結局、ただ法の真実があるだけなく、その法に照らされ、そのお目当てが誰なのかを知らされねば空しいということになる。そしてそれは諸仏方が讃嘆し、法も機も真実であることが証明されてこそ届くもでのである。

 そのことは、法座の構造、三量にも当てはまるのではないだろうか。
 聖教量(説教・法話)はいわば教えで、法の真実を示すものだ。
 しかし、それだけではダメで、その教えが確かに衆生(私)上に届いてこなければ意味はない。それが現量(領解出言・信仰体験発表)であって、いわば本願のお目当てを体解したところが語られるところである。
 そしてさらに比量(談合・信仰座談)として、同行の仏徳讃嘆の声となり響き合い、法の真実、機の真実が証明されていくというのである。

 そうなると、現状の真宗界はどうであろうか。そんなこともいろいろと考察させていただいた。

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聖典講座スクリーング法座

  根っからの貧乏症である。聞法旅行が延期となった影響で、「壮年の集い」を中止した。すると土曜日が空いてくる。翌日に聖典講座を控えていて準備もある。無理にウメる必要がないのに、ついつい勿体ないと思ってしまう。

 早くからの申込者が数名あったのも一因だ。しかし日曜日の午後からは聖典講座は外せない。ならばそれに関連した聖典講座のスクリーングとどうか? 「浄土三部経」の聖典講座がすべて終わったまとめで、何かやりたいと考えていたのだ。少し前倒しだが、提案すると「いいですね」という声が届いてきた。でも、2週続けての宿泊法座、しかも予定外の法座となって、実際は参加者は少なかった。それでも2週続けて参加される方が半数。広島などの遠方からの参加者もあった。ハッキリしたことは、2週続いても参加する人はする。チャンスがあっても参加しない人はしない。当たり前のことだ。

 2日目の昼座は通常の聖典講座なので、1日目の昼座、夜座、そして2日目の朝座の3回で、浄土三部経を概観を頂かねばならない。かなり飛ばした。ただ講義だけでなはい、通信講座の方に浄土三部経のDVD(『観経』はスライド(幻燈)が面白い)を見てもらうのだ。これを楽しみにしてくださる方もある。おかげで、2日間、かなり濃厚な集いになったのではないだろうか。

 ぼく自身も、あらためて三部経を短時間に頂くことで、一致して真実を示される部分と、さらにそれぞれの役割とがクッキリと浮かび上がってきた。詳しくは、次号の華光誌の巻頭言で触れている。要は、ただ法の真実の『大経』だけではダメで、そこに機の真実、つまり法(南無阿弥陀仏)のお目当ては誰なのかが示される『観経』があり、さらに機と法を合説して、諸仏方が証誠される『小経』があって、南無阿弥陀仏のお目当ては、五濁悪世に沈むこの泥凡夫であり、そしてその真実が私にまで届けられるのである。南無阿弥陀仏

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第三室戸台風?

 台風21号は、各地に大きな被害をもたらしたが、皆さん、大丈夫でしたか。大阪や和歌山の同人の中には、被害(大半が建物や車で人的被害ではなった)の様子を窺った。また停電(4日間も停電と断水が続いた同人もあった)で不自由された方も多かったようだ。

 台風がやってくると、父のことを思い出す。ぼくの中で台風での被害の記憶はない。ただ、ラジオやテレビで情報を集め、汗だくになりながら会館中の雨戸を打ちつけていた姿が印象的だ。昔は、役員さんも心配で駆けつけてくださり、一緒に作業された。その後、全館がサッシとなった。格段に安全性が高まったが、それでも防風用のシャッターがすべて降ろされた。昼間でも会館全体が真っ暗になった。

 でもそこまで用心するには、それなりの理由があった。若い時から重なる台風の被害を受けて来たからだ。中でも、初代華光会館が完成した数年後、第二室戸台風では大きな被害があった。ぼくが生まれる前年のことだ。強風で道場の南東の角の土壁が飛ばされて、暴風雨が会館の中を吹きつけたのだ。当然、道場のタタミがだめになるだけでなく、大屋根が持ち上がって飛ばされる直前までなったという。当日は、下宿や間借りの家族がたくさんおられた時代。総出でタタミを上げ、抜きた場所を大至急タタミで覆って、なんとかしのいだそうだ。当時、会館付近に高い建物はなく、強風が直撃したのであろう。建設資金の返済は続いていたが、すぐに風水害募金が始まった。それで、翌春に予定されいてた親鸞聖人の700回大遠忌も延期された。そのおかげで昭和39年に開催された700回大遠忌には、ぼくもお稚児さんで出席することができたのだ。まだ2歳で記憶にはない。頭を大やけどして、グルグル巻の包帯姿の写真が残っている。

 特に、今回のような室戸岬を通るコース台風に敏感だった。「室戸岬から四国をかすめ、大阪湾に上陸すると、台風の東側になるので(大阪や京都は)大きな被害になるんや」というのが、台風のニュースを見る時の口癖だった。余程、懲りたのであろう。

 今回の台風がまさにそのコースだった。風速や潮位(高潮)は、室戸台風や第二室戸に匹敵したり、それ以上に史上1位を記録した地域もたくさんあった。京都でも、室戸台風以来、戦後は最大の瞬間最大風速を記録した。

Img_8073 会館にもいろいろなものが飛ばされきたが、隣りビルのアンテナが一斉にこちらに折れ曲がり、飛んでこないかと心配にはなった。翌日、みんなで駐車場や屋上の掃除や片づけをした。この一角は停電もせず、点検する限り建物に被害はなかった。たいへんな暴風で、歴史的な建物は大きな被害を受けたが、大半は無事に済んでいる。昔に比べれば、それだけ建物が丈夫になっているということだろう。ただ温暖化に伴い、もっと強烈な台風に襲われたり、これが毎年の恒例になるのでは?という予感も強くさせられた

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『仏敵』の旅(6)了妙尼公開基の金台寺

Img_8003_2 初日で『仏敵』関係の旅を終えて、吉野川上村の温泉の宿に入る。恒例の宴会ではさまざまな隠し芸が披露され、二次会の懇親Img_8023会も深夜まで盛り上がった。

 2日目午前中は、宿でのご法座。5グループでの分級座談会の後、まとめの法話をする。改めて『仏敵』のポイントにImg_8025触れた。もともとは、存覚上人ゆかりの願行Img_8040寺、歎異抄の唯円房の墓所がある立興寺、そして八木の金台寺の3ケ所を巡る予定で、法座はなImg_8027かった。今回、午前は、ゆっくり宿で過ごせたのは、なかなか好評だったと思う。

 Img_8065帰路は、橿原市八木の金台寺に参拝。予定の3ケ寺の中から、旅行社もぼくも一致してここを選んだ。

 橿原市には、今井町という浄土真宗の称念寺を中心とした寺内町が歴史的景観としても有名だが、この八木町も、古から交通の要所として栄え、今も古い町家が残っている。日本遺産にも指定されている歴史的な地区の一角に、金台寺はひっそりと佇んでいた。細い路地の中に、大和国分寺などの3ケ寺の一つで、こじんまりとした境内は了妙尼公の庵を彷彿とさせる。
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↑実は、今の坊守様は、若い頃に祖母様のご縁で華光の集りにもお参りくださっていた。その頃を知る皆さんとも懐かしく再会を喜びあった。残念ながら、多忙なご住職は不在だったが、丁寧にご説明くださった。このお寺は、先代の時から数回お参りさせてもらっている。昔からの法義所で、今回、分けていただいた書籍には、先々代からの法縁であることを窺った。特に香樹院徳龍師を仰いでおられるようだ。Img_8044
 蓮如上人ゆかりの地であるが、『御一代記聞書』の七二通に

「蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。
大和の了妙は帷(かたびら)一つをも着かね候へども、このたび仏になるべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。」

とある了妙尼公が開基である。
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(南渓和上の讃と糸車の了妙尼)

 ある夏の暑い日、旅の蓮如上人が、あばら家の老婆に一碗の井戸水を所望されたことが、その出会いで、ご教化を受けられるきっかけとなる。もとは裕福な造り酒屋の内儀であったが、夫を始め、息子や嫁を次々と失って、家が没落して、糸を紡ぎながらなんとか生計を立てていたという。蓮如様との出会いは、七十歳頃だというから、当時はかなりの老齢の方だったろう。

 その後、この地を通られる度に、上人は足を運ばれる。その中で、有名な糸車のエピーソドが残されていく。

 ある時、ふと庵に立ち寄られた蓮如さまは、「了妙よ、何をしておるのか」とお尋ねされた。
 
 「糸車をくりながら、お念仏申させてもらっております」と、了妙さんがお答えになると、

 蓮如さまは、「それは心得違いぞ。糸をくりながら念仏を申すのではない。念仏を申しながら、そのついでに糸をくるのだ」、と諭されたいうのである。

 生活の中に念仏かあるのか、念仏の中に生活があるのか。一見、同じように思うが、生活が主人ではなく、念仏が主人であるというご教示は尊い。
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 悟朗先生から何度も聞かされたご法話だが、あらためて現地でお聴きすると感銘(しかも山本仏骨先生の法話の一節をご披露くださった)深かった。
 直接的に、伊藤先生との関連はなかったが、日頃お聞かせに預かっているエピソードでこの旅を締めくくられた。坊守様もありがとうございました。南無阿弥陀仏
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Img_8060_2真ん中は、毎年お世話になっている添乗のNさんと、
いつもはベテランのガイドさんが多い中で、珍しく若いガイドさんで、新鮮でした。
右手は、運転手さん?(嘘です)

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『仏敵』の旅(5)伊藤康善師墓所

 當専寺では、ジュースや「當専寺」ネーム入りボールペン、興正寺の一筆箋をいただくなど歓待を受けた。伊藤先生のお墓にもお参りしたので、ここも慌ただしく出ることになった。クネクネと回りながら田舎の路地を進んで、村の共同墓地だろうか。Img_7920
↑やはり二上山を遥かに望む地である。
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↑伊藤康善先生は昭和44年1月9日に、72歳でご往生された。今年が五十回忌である。一同で静かに手を合わせ、「恩徳讃」を唱和する。

 ここでもショックなことがあった。これまで父から先生の法名を「瑞光院釈康善法師」と聞いていた。それで、先生の古い華光誌の随想を「瑞光抄」として出したこともある。ところが、墓標は「瑞香院釈康善法師」とあるのだ!(下段左側)

 光ではなく香だったのか。光と香で、音は「こう」で同じ。仏具なら、光は燭台、香は香爐で、やはり三具足で一体のものだなーとも考えた。でも、ぼくの中では、「瑞光院」である。

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『仏敵』の旅(4)當専寺

  「野口道場」から伊藤先生のご自坊の「當専寺」までは、二里(約8キロ)の道だと、『仏敵Img_7909』にはある。昔、野口道場は野口村だったが、今は大和高田市に、當専寺は新庄町だったが、今は葛城市になっている。バスだImg_7896と大回りせねばならないので、かなり距離を感じた。この道を、伊藤青年は、求道の悩みを抱えながら往復しているのである。二上山(にじょうさん)の山並みが見えている。『仏敵』でも、その風景がこのように描写される。

 「もう夕暮れである。二上山脚に落ちていく春の太陽は真紅に燃えて、鎮守の森の木陰にうずくまってものを考えている私の姿を、悩ましげに照らのであった。」

 距離はあっても、バスでは短時間で當専寺に付いた。広い場所にバスが止まって、細い曲がりくねった路地を歩く。ご住職が先導くださる。伊藤先生のご子息は方は寺継承されるでに、奥さま(愛子さん)のご親戚が入寺されお護りくださっているのだ。
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↑真宗興正派の末寺で、小さな山門の脇には「一養山 當専寺」の碑文が立つ。Img_7894_2
↑平成の大修復がなされていた。野口道場と同じく平成12年とは、奇遇である。
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↑今回一番のショックは、父が揮毫した「華光道場」の扁額と左右の波の絵がなくなっていたのだ。それを察して、住職からもご説明。修復に際して、直接、土壁に書かれていた書や絵は取り外せず、いまのこの絵の下になっているという。しかし直接的に上書ではなく、(つまり消さないで)それを覆うものを挟んでから、その上に書かれている。つまり、今でもこの下に書と絵は残っているとうのである。「華光道場」が無くなったいきさつのは、象徴的でいろいろと感じさせれた。
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↑これから修復されるという。以前は内陣の上もこんな感じだった。Img_7903
↑観音菩薩像。浄土真宗に転派の以前の名残りで、長谷寺と観音さまと同じ木材だと言い伝えられるそうだ。
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↑當専寺の第十七世の住職である伊藤先生の七条袈裟の写真。会館にも同じ時に撮られた写真がある。當専寺の親鸞聖人七百回忌法要の時だろう。Img_7881
↑伊藤先生が晩年に建立された梵鐘。華光誌に「梵鐘のひびき」として連載され、倶会一処の梵鐘発願の思いが語られている。華光同人やアメリカ同人も喜捨されている。この「実は…」の裏話を父から聞いてるが、今は止めておこう。Img_7884

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『仏敵』の旅(3)野口道場

Img_7875  この旅のメーン、大和高田市にある「野口道場」へ。大型バスが入らない。世話役の経営される工場(紡績関係)に駐車し、細い路地を歩く。すっかり街中になっているが、往時を偲ばせる細い路地Img_7876は健在だ。途中、野口公民館の前に、「南無阿弥陀仏」の碑と阿弥陀堂の小さな祠がある。これは『仏敵』には登場しない。ただ、紡績工場の5時知らせるサイレンという記述がある。このあたりは靴下の町である。もしかすると今の工場かもしれない。
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 ↑民家の中に野口道場が見えてきた。概観は普通の家と変わらない。門をくぐる。『仏敵』では、「土塀続きのみそぼらしい門」となっているところだ。
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 ↑小さな前庭に「釈尼妙芳」と刻まれたおよし同行の墓が出迎え。案外新しく、昭和46年に建立。

 そして、たくさんの尼講の皆さんもお待ちくださっていた。彼女たちはいまも変わらず毎月18日が、尼講の集りがあるという。尼講の皆さんの話では、その日は、およしさんとの関連があるのでのはといっておられたが、そのあたりは不明だという。残ながらお墓と建物以外、教えは何も残ってはいない。
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↑滞在50分間ほどの予定だったが、往復の行程があって実質30分ほどしかない。すぐに勤行を始める。皆さん勤行に力が入る。娑婆では、華光のルーツはここなのだ。狭い道場は、40名の同人で一杯になる。隣の間には、尼講の皆さんが座って一緒にお勤めされた。その後で、法話の代わりに、『仏敵』の一節をいつくか読ませてもらった。

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↑最初、伊藤青年が尋ねた野口道場は、屋根にペンゾン草が生え、破れ果てた道場は化け物屋敷だと描写されている。
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↑ところがきれいになっていて驚いた。ペンペン草は生えていなかったが、20年前は薄暗い道場に、やたらと立派な仏壇が金色に輝いていた。実は、今回、耐震性の問題もあって、役割を終えてもうなくなるのではと心配していた。ところが、瓦も新しく、道場もきれいになっている。平成18年(12年前)12月に「平成大修復」を終えたというのだ。
 皆さんでお護りくださっているのはうれしかった。中には、想像よりもきれいで、ちょっとイメージが異なったという人もあった。
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 「泥まみれの縁側の板」もきれいに磨かれている。右手あたりに井戸があったか?↑

  大正7年頃、伊藤先生が仏教大学(現龍大学)の2回生の春休みの出来事だから、20~21歳の時である。いまから100年前の出来事だ。『仏敵』では、まだ電燈工事か進捗せずに、薄暗い本堂にはランプが灯り、暖は火鉢とある。いまはエアコンも設置。
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↑伊藤青年が『観経』定善(第八観・像観)のごとく、「水流・光明」されたお仏壇。いつ訪れてもきれいにお荘厳されている。
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↑伊藤青年が休んだり、ご示談の場となって別室は、物置部屋。
 みんながうれいしそうに眺めるのを、地元の人々は不思議そうに見ていた。当時は、ここからも外に出入りできたことになる。
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↑奥の柱は年季を感じさせる。

 短い時間で怒涛のように立ち去るのは、こころ残りもあったが、感無量で、当専寺へ。
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『仏敵』の旅(2)番外編~智積院

「『仏敵』や伊藤先生と、智積院はどんな関係があるのですか」
複数の方から尋ねられる。
残念ながら関係はない。40年前、『仏敵』の聞法旅行(2泊3日)では、第1章にある将軍塚や黒谷の金戒光明寺にも行った。伊藤青年は、将軍塚から円山公園、知恩院と東山界隈を抜けて、岡崎公園から黒谷へと歩いて向かれた。しかし、今回は黒谷まで足を延ばせない。7月の時は、興正寺でお話を窺って、昼食で智積院会館に入る計画。それが、興正寺が自然災害でダメになった。
 本願寺の日暮門もこのありさま。↓
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 それで、昼食の時間まで智積院を拝観することにした。唯一の関連は、東山界隈のお寺ということだけ。↓Img_7827
 ここは3年前の京都の親鸞聖人ご旧跡巡拝でも、ここで昼食を食べて自由に境内を散策したが、今回は有料拝観をすることにしたのだ。↓
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 インバウンドで海外からの観光客で混雑する京都だか、ここは街中にありながら、閑散として靜寂が広がる。そう、ぼくたち団体客がいなければ、靜寂そのものだったのだが、ちょっと賑やかにしてしまったかも、、。↓
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 国宝の長谷川等伯一派の見事な襖絵も鑑賞でます。写真のものは模写。色鮮やかだけども、この後、本物を観るとそのすごさが一目瞭然。↓
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 金堂では雛僧たちが研修中。真言宗系ですが、声明は浄土にも通じている。とにかく荘厳。↓
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 秋の紅葉も見事だったけれど、小雨に濡れた苔や緑も風情があった。↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-d238.html
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 華光の聞法旅行で、純然たる観光地に行くのは珍しいが、京都の同人も含めて、ほぼ皆さん初訪問。隠れた名所にご満足の様子。
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『仏敵』の旅(1)龍谷大学大宮学舍

  『仏敵』を巡る聞法旅行。7月の予定が、西日本豪雨で延期になった。今回も雨は気になるが、旅行には影響はない。が、早朝、欠席の電話。北陸地方の大雨で、列車が不通になったのだ。新潟の参加者は前日入りだったが、福井の方は残念なことになった。

 前回より参加者は増えた。京都駅に集合し龍谷大学大宮学舍へ。5分で到着。伊藤先生と言えば興正寺本山からスタート予定だったが、大阪北部地震と豪雨の影響で内部拝観がなくなり、龍谷大学からスタート。
 『仏敵』の中で龍谷大学の回想シーンは、伊藤青年が「善き知識」を求めるための大切な機縁となっている。第4章である。
  
 龍谷大学は、今から380年前、1639(寛永16)年に、西本願寺に誕生した「学寮」が、その前身である。世界でも有数の、日本でいちばん古い大学だと自称している。(それを言うなら、東寺にある種智院大学はもっとすごい)。その後の法論や混乱で、学寮は破却されて新たに「学林」となり、明治期に入って、 1876(明治9)年に、「大教校」となっていく。今日の大学という意味では、このあたりからであろう。そして、明治12年に、現在の本館や南黌・北黌などが完成している。なお、伊藤先生が在学中は、仏教大学と称していた。いまの仏教大学とは無関係。

 土曜日で講堂の内部拝観(写真はあります)はできず、外からの見学。ぼくが説明役たったので、母校の歴史を改めて調べ直した。ちょうど数日前る京都新聞に、建築物としての本講の記事が詳細にでていたので、皆さんに配布。
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 本館(講堂)は石造りの西洋建築にみえるが、実は木造建築。高い伝統技術を持った本願寺に関わる大工が、西洋の技法を取り入れたもので、木に石を貼った「木骨石貼り」構造という珍しい技法。重厚なたたずまいが人気で、最近の映画のロケ地として多数、登場している。
 ここからは、3日前に撮った内部の写真↓Img_7784

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↑本館より北黌(教室)を眺める
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↑南北黌(教室棟)は、「仏敵」当時は寄宿舎。ぼくが在学中に修復され重要文化財に指定

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↑旧守衛所と正門も、初期西洋建築の貴重な建築物で、国の重要文化財。ただし正門はレブリカで、本物は東黌に展示中。

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お久しぶりです

9月入ってもブログが停滞している。その間、
 1日・2日の聞法旅行
 8日・9日には、聖典講座スクリーング
と準備や資料を作製しなければならない宿泊行事が、2週続いた。もともと年間計画ではなかった行事だ。7月の大雨で延期となり、中止になった壮年の集いの代わりに開いたものだ。しかもこの時期は、華光誌の編集に追われる。これは14日に印刷所を渡すことで作業中である。巻頭言を残すのみで、後の作業は順調に進んでいるようだ。

 それにしても、先週は、近畿直撃の台風、北海道の地震と、天変地異が続いた1週間となった。

 せっかくの『仏敵』の聞法旅行だったので、ボチボチでも遡って書いていきたい。

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