初日で『仏敵』関係の旅を終えて、吉野川上村の温泉の宿に入る。恒例の宴会ではさまざまな隠し芸が披露され、二次会の懇親
会も深夜まで盛り上がった。
2日目午前中は、宿でのご法座。5グループでの分級座談会の後、まとめの法話をする。改めて『仏敵』のポイントに
触れた。もともとは、存覚上人ゆかりの願行
寺、歎異抄の唯円房の墓所がある立興寺、そして八木の金台寺の3ケ所を巡る予定で、法座はな
かった。今回、午前は、ゆっくり宿で過ごせたのは、なかなか好評だったと思う。
帰路は、橿原市八木の金台寺に参拝。予定の3ケ寺の中から、旅行社もぼくも一致してここを選んだ。
橿原市には、今井町という浄土真宗の称念寺を中心とした寺内町が歴史的景観としても有名だが、この八木町も、古から交通の要所として栄え、今も古い町家が残っている。日本遺産にも指定されている歴史的な地区の一角に、金台寺はひっそりと佇んでいた。細い路地の中に、大和国分寺などの3ケ寺の一つで、こじんまりとした境内は了妙尼公の庵を彷彿とさせる。

↑実は、今の坊守様は、若い頃に祖母様のご縁で華光の集りにもお参りくださっていた。その頃を知る皆さんとも懐かしく再会を喜びあった。残念ながら、多忙なご住職は不在だったが、丁寧にご説明くださった。このお寺は、先代の時から数回お参りさせてもらっている。昔からの法義所で、今回、分けていただいた書籍には、先々代からの法縁であることを窺った。特に香樹院徳龍師を仰いでおられるようだ。
蓮如上人ゆかりの地であるが、『御一代記聞書』の七二通に
「蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。
大和の了妙は帷(かたびら)一つをも着かね候へども、このたび仏になるべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。」
とある了妙尼公が開基である。


(南渓和上の讃と糸車の了妙尼)
ある夏の暑い日、旅の蓮如上人が、あばら家の老婆に一碗の井戸水を所望されたことが、その出会いで、ご教化を受けられるきっかけとなる。もとは裕福な造り酒屋の内儀であったが、夫を始め、息子や嫁を次々と失って、家が没落して、糸を紡ぎながらなんとか生計を立てていたという。蓮如様との出会いは、七十歳頃だというから、当時はかなりの老齢の方だったろう。
その後、この地を通られる度に、上人は足を運ばれる。その中で、有名な糸車のエピーソドが残されていく。
ある時、ふと庵に立ち寄られた蓮如さまは、「了妙よ、何をしておるのか」とお尋ねされた。
「糸車をくりながら、お念仏申させてもらっております」と、了妙さんがお答えになると、
蓮如さまは、「それは心得違いぞ。糸をくりながら念仏を申すのではない。念仏を申しながら、そのついでに糸をくるのだ」、と諭されたいうのである。
生活の中に念仏かあるのか、念仏の中に生活があるのか。一見、同じように思うが、生活が主人ではなく、念仏が主人であるというご教示は尊い。

悟朗先生から何度も聞かされたご法話だが、あらためて現地でお聴きすると感銘(しかも山本仏骨先生の法話の一節をご披露くださった)深かった。
直接的に、伊藤先生との関連はなかったが、日頃お聞かせに預かっているエピソードでこの旅を締めくくられた。坊守様もありがとうございました。南無阿弥陀仏

真ん中は、毎年お世話になっている添乗のNさんと、
いつもはベテランのガイドさんが多い中で、珍しく若いガイドさんで、新鮮でした。
右手は、運転手さん?(嘘です)