« お衣の価値 | トップページ | 四十八願のこころ(17)~第三十三・三十四願 »

三周忌

    3年前の8月7日も、今年のように暑かった。やはり仏の子供大会が終わった後だった。父が亡くなって丸三年。三回忌は昨夏に済んでいる。今年は、三周忌ということになるのか。家族3名だけで、お正信偈様をお勤めした。

 勤行しながら、断片的に父のことを思い出していた。御文章の拝読は、子供のころに父から指導を受けたものだ。記憶では、勤行は重誓偈や讃仏偈の偈文が中心、お盆用の阿弥陀経、そして御文章(聖人一流章と末代無智章)は教えてもらったが、なぜか正信偈や和讃を教わった思いがないのが不思議だった。

 最後に『末代無智章』を拝読した。

 その『末代無智章』は、「寝ても覚めてもいのちのあらん限り、称名念仏すべきものなり」と結ばれる。信心を喜ぶものは、ご恩報謝のお念仏を日夜怠ることなく、しかも生命尽きとる瞬間まで一生相続せよというお示しである。

 ところが、幼いのぼくは「寝ても覚めてもいのちのあらん限り」を、「寝ていても、起きているときも、いつ死ぬかわらない」という意味で誤解していたのだ。末代無智章があがるたびに、ドキドキした。起きている時はまだいい。問題は寝ている間も、いのちがあるとは限らないというところだ。寝てまま死んでしまって、このまま目が覚めないのじゃなかいと思ったのだ。だから寝る時が恐かったりもした。特に、夏休みはその思いが強くなる。学校がなく、夏休みは取り立てた予定がない日も多いからだ。そして、仏の子供大会(特に地獄のスライド)があると、なお一層、その思いを強くした。特に小4年の時の記憶は鮮明だ。不安になると、母に「明日の予定は?」と尋ねた。「明日は歯医者さんや」などと教えてもらうと、明日は予定があるのだがら、きっと明日はあると思い込むようにしていた。

 神経質な子どもだった。しかしそのことが、仏法に出会い、大きな幸せを身となる機縁となるのだから、まったく有り難い。それもまた子供大会が終わった後のお盆の頃だった。

|
|

« お衣の価値 | トップページ | 四十八願のこころ(17)~第三十三・三十四願 »

今日の華光会館」カテゴリの記事