~自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさ~
今夜の「仏書に親しむ会」は、仏青世代の方も含めて、参加者が多った。たぶん、この形式になって過去最高だったと思う。(レベルは低いですが)
増井悟朗先生の「二つのカサ」の最終章(「御同行・御同朋の道」)だけを、2時間かけて読む。
その前章(「どこまでも自分に」)では、ある支部でのトラブルの相談をうけられた悟朗先生が、相談者にこのように語っておられる。(一部抜粋)
「増井先生がこう言わわれた」と、それをカサにきられても困りますからね。それで「あんたはどう思いますか」と尋ねた(略)。そして、
「明らかに意見が違うたら、相手に頭を下げて聞いていくという聞き方、話し合いの仕方がありませんか? “私としては、こう思っている”と話して、“あなたはどう思いますか、教えてください”と相手に聞いていく。これが、私のために頭を下げてくださった法蔵菩薩様のご苦労。世自在王仏様の前で、この聞かん私のために、頭を下げてくださったお心ではないでしょうか」と申し上げました。
でもここが難しい。なぜなら、驕慢の絶頂で、「わしゃ聞いている」というのが、なかなか折れるようで折れないからだ。そこを破ってもらうには、一人合点では無理。こういうお座を実践の場として、事あるごとに常にそれを心掛けていくということが、聞法の道だと、綴られている。
そこを踏まえて最後の章である。そのまま引用する。
私達は、人に厳しく向けば向くほど、自分には優しくなる。なかなか自分を許しても、人を許すことはできない。人を責めるほうへはすぐ目が光り、己を見る目は眠ってしまう自性だということがよくわかります。でも、我が身に厳しく問うていけば、人に言える自分ではなくなると思います。
伊藤康善先生は、「法乞食になって聞け」と言われた。ひもじくない者は聞かれませんし、中々、乞食にもなれない。しかし、自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさというものを見せられると、頭を下げざるをえないのじゃないでしょうか。まあそういうふうに、人間関係を通して、ご法を聞かせてもらいますと、自分一人さえ喜んでいたらいいわではない。一人でも聞いてもらおうということが、同時に自分に聞かせてもろうていく道でもあります。真宗は御同行御同朋の在家集団ですから、やはり法衣を着ておるものも同じでして、法をカサにきたり、体験をカサにきたりしないで、どこまでも真実を尋ね、真実を求めて、聞いていくしかないと思うております。
年をとるほど、だんだん孤独になってこざるをえない。見る世界、聞こえてくる世界も、味わえてくるものも、感覚的にも肉体的にも衰えてきて、だんだん狭く、ひがみやすく、愚痴っぽくもなってまいります。そういう自分というものを考えながら、どこまでも聞かせてもらう、教えてもらうことを光として進んでいく。そこに、やっぱり年とってこその、このご法のお仕事があるんじゃないかと思います。
このように、厳しく我が身に追求していく姿勢を、ご法によっていただけたんだということを味合わせてもらうにつれて、そこに親鸞聖人が私達に残してくださった御同行御同朋の道が、開けて来るんではないかとお味わいさせていただきます。共感していただけたら、大変ありがたいと思うわけです。
口ではいくらでも「厳しく聞いていく」とはいえる。しかし、実際はどうか。どう厳しく聞いているか。
伊藤康善先生は「法乞食になって聞け」といわれた。この一言は、ほんとうに堪える。そしてそれを受けられた、悟朗先生に言葉に震えた。
「ひもじくない者は聞かれませんし、中々、乞食にもなれない。しかし、自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさというものを見せられると、頭を下げざるをえないのじゃないでしょうか」
決して、頭は下らない。しかし、ほんとうに、ご法にあえば、自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさをいやというほど見せられる。実際、それしかないのだろか。すると、ただ頭を下げて聞くしかないのだ。だが、実際は、逆である。私はすぐに、二つのカサを来て、威張る。
「私は聞いている」と体験をカサ。そして、「このご法は正しい。間違いない」と、法をカサにきるのである。
聞いたも、正しいも、これだけも、「一切を放下せよ」。
すると、何が残る……。
頭を垂れざるをえない。南無阿弥陀仏
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