修繕工事の下見
役員のKさんの紹介で、修繕工事の請負業者が下見にくる。請負業者は3社ほどの入札で決めるので、現地説明を9月下旬に開く段取りだ。その前に、この仕事を受けていただけるのかどうかの下見である。
見取図を示しながら、会館を見て回る。きれいに見えていても、その目で細かく見ていくと、修理の必要な箇所ばかりである。これにいちばん驚かれたのが、いつも会館に出入りされているKさんである。
ひび割れの箇所、剥がれているところ、染みになっているところ、割れているガラスに、壊れた給湯器、屋上もコンクリートが剥がれ、玄関もガタガタだ。
まるで私の罪悪と同じである。凡夫のわが身可愛いやの眼でみれば、きれいな、よいところばかりだが、如来の仏智眼に映るのは、見すぼらしい姿である。もし自分で気付かなかったことに気づき、そんな目で見出すと、哀れでしかないわが姿から目をそらすことができなくなる。一端、見え出すとそうとしか見えないのである。
もし建物や物なら、修繕したり、きれいにすることができる。それでも修繕も補修もできなかったらどうするのか。取り壊してしまうしかない。
では、我が身の場合はどうするのか。仏さまは、善行を勧められた。身、口、意の三業に渡る清浄の業を成すのである。しかし、それすらできない、やらないものはどうなるのか。ほんとうは潔く取り壊していくしかないのだが、これがなかなか難しい。なんとかなるとうぬぼれてく。そんなボロに執着し、その修復に汲々していくのだ。捨てることほど難しいことはない。
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