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『観経』「散善顕行縁」(2)~去此不遠~

 ところで、ずっと沈黙して、愚痴を受け止めて、光明で済度されていた釋尊が、開かれた第一声が、「阿弥陀仏、此を去ること遠からず。」というのは有り難い。

 古来より、「去此不遠」は、『大経』や『小経』との違いが問題にされている。すなわち、『観経』が「此を去ること遠からず」に対して、

 「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。」(『無量寿経』)
 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名付けて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。」(『阿弥陀経』)

と『大経』や『小経』では、「十万億刹」も離れている表現されているのをどう会通するのか。この点に関しても、善導様は『序分義』で、三義を建ててご説明下さっている。すなわち

一、分斉不遠の義-分斉を「程度」とすれば、二十万億刹や三十万億刹等の諸仏の国に比べれば、遠くないといわれる。また分斉は「境界」ともとれる。

二、往生不遠の義-浄土への道のりは遠く説かれていても、往生する時は一瞬なので(一念即到)、遠くはない。

三、観見不遠の義-観念の行が成就すれば,浄土も如来も心眼に映り、常に眼前だ。

ということになる。

聞法の上でも、最初は、浄土も阿弥陀さまを遥かに遠い。ともすれば、私の方で遠い存在にしてしまっている。しかし、阿弥陀様の側から見ればどうだろうか。西方極楽浄土を離れたまわぬ阿弥陀仏ではあるが、同時に、大悲の働きからみれば、形に影が離れないように、常にこの我が身に寄り添い、護ってくださっているということになる。
ならば、遠いところに追いやって、人事として聞法していては、余りにも勿体ないではないだろうか。(続く)
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  ↑若き日の悟朗先生の書(二階の階段に掲示)

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