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Y家家庭法座~仏さまに会う~

 連れ合いも一緒にお招きいただく。また広島からも姉妹の参加ものあって、Y会計事務所の会議室は一杯になった。

 今回のテーマは、仏さまと決めていた。最初は、「仏さまとはどんな御方ですか?」という問いから。2日目の朝座のY先生も呼応するように、「阿弥陀さまの本願と成就文」だった。2日目昼座も、「仏さまにお会いしましたか?」とお尋ねすることから始めた。

 7割方の皆さんが、戸惑いながらも「お会いしました」と挙手された。それで、「では、その仏さまはどんなお方でしたか?」と尋ねたら、その答えがユニーク。「姿、形はあらねども‥」とか、「お光で包まれて」とか、「私の迷い(疑い)をスパッと破ってくださった時に」とか、「声としての届いた」とか、要はさまざまである。

 現代では、浄土が有るか無いかとか、仏さまが実在するとか、しないとか、そんなことが問題になっている。しかし、少なくても親鸞さま当時(それ以前でも)仏さまは見奉るもの、お会いするものだということを前提に、仏道修行されていたのである。いわゆる、見仏であったり観仏の行だ。しかしそれは、決して、私達の迷いの眼では見ることのできない、さとりの世界そのものである。だがら善導さまは、もし仏さまにお会いできないのなら、懺悔滅罪をせねばならないとご教示された。それでも見えないのなら、ますます懺悔滅罪をしなさいといれわている。つまり煩悩の眼では見奉ることのできない真如の世界だというのである。

 ところが愚痴の女人であった韋提希夫人は、釋尊のお力(仏力)によって、阿弥陀さまやその浄土を目の当たりにし無生法忍のさとりを得られたことは、今月の聖典講座の記事に触れている。

 でも、末代の泥凡夫には無理なことなのか。末代の泥凡夫は、南無阿弥陀仏という名前となった生きた仏さまにお出会をさせていただくのてある。しかも、「聞名得忍」の願いが用意されている。聞くことの信心一つで、韋提希と同じ一つで三忍を得る仕組みが成就されている。日頃、ボーッと称え、ボーッと聞いている南無阿弥陀仏だが、こうして仏さまに会わせていただき、大きなお徳を頂いているのである。

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