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『観経』「定善示観縁」(2)権化の仁

 『観経』の発起序も、今回は「定善示観縁」といわれるところで、これから説かれる十三種の定善が浄土往生のための観法であることを示される段である。
 ところで、ここは「韋提凡聖論」、つまり韋提希夫人は、凡夫か、聖者か、その権実が問題となってくる。これは、結局、『観経』が誰のために説かれた教えなのか、お救いのお目当ては誰かのかという問題である。

 まず、これまでの中国の聖道の諸師方は、韋提聖者説を取っておられる。
  阿闍世や提婆達多も含めて、初地以上の大菩薩で、聖者。自利利他の悟りを完成させるために、仮に女人や悪人の姿を示された。この世で阿弥陀仏を目の当たりにし、無生法忍(七地~九地)を得られたのは、既に順忍(四地~六地)の境地の菩薩であったからだと。つまり、これらの方々は、従因向果(因より果に向かう)の菩薩の変化で、仏果に至るために邁進する自力修行中の聖者の仮の姿といただかれたのである。

 それに対して、善導大師は、韋提実凡夫説である。実業(もともとからの、根っからの)凡夫である。それを示すために、わざわざお釈迦さまは韋提希夫人を指さし、「汝是凡夫・心想羸劣」=「なんじはこれ凡夫なり。心想羸劣にして‥」と示されているのだと。つまり、我々と同じ実凡夫であると観られている。
「羸」(るい)とは見慣れない漢字だが、(1)やせる(2)つかれる(3)よわい(4)わるい、粗末の意味がる。劣は、もちろん劣っているという意味なので、心も、そこに想うことも、粗末で劣っており、天眼通などもなく、遠い世界を観ることもきないといわれた。

  では、そんな凡夫が、どうして浄土や阿弥陀仏を観察したり、「無生法忍」のさとりが得られるのか。そのこともここに示されている。つまりは、仏願力によってのみ、未来の凡夫も浄土を観察して、そして「無生法忍」を得しめられるというのである。善導様は、『観経』は決して聖者のためだけの教えではなく、われわれ凡夫のための教えである(為凡の教)であることを示されたかったのである。

 ところが、親鸞聖人は、善導様のお示しがあるにもかかわらず、韋提希夫人たちを、菩薩が仮に現われた姿と御覧になった。しかし、それは聖道のお祖師と同じ心ではなく、そのお心は善導様と同じである。なぜなら、彼らは、「権化の仁」として、従果向(降)因(果より因に降りた)の還相廻向の菩薩であって、大悲教化の利他の活動相を示されているとみられている。つまり、われわれ泥凡夫を哀れんだ仏が還相廻向し、悪人や凡夫の姿を仮で大芝居をして、私達に弥陀の本願、他力念仏のお目当てが、このような悪人、凡夫であるというお示しだとみられている。そのことを、親鸞さまは、ご和讃や『総序』でご教示下さる。

「しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌 を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す」と。

『総序』のこのご教示は、殊の外、有り難い。

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