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『観経』「定善示観縁」(1)概要

  今月2回目の聖典講座は、 『観経』の発起序で、「定善示観縁」である。前回の「散善顕行縁」で、釋尊のご説法が始まって、三福、つまり散善の行が明らかにされた。今回の「定善示観縁」は、これから説かれる十三種の定善が浄土往生のための観法であることを示される段である。

 (7)定善示観縁【八】発起序七縁の七(じょうぜんじかんえん)
 まず、釋尊が阿難と韋提希に対して、「これから、煩悩に苦しむ未来のすべての凡夫のために、浄土往生のための清らかな行を説こう」と述べられる。
 そして、「極楽世界を想い描くことは凡夫の力だけではできない。曇りない鏡がないと自分の顔が分からないように、仏さまの力によって清らかな浄土を観ることができ、そして無生法忍というすぐれたさとりを得ることが出来る」と述べられる。
 さらに、釋尊は韋提希を指さして、「あなたは愚かな凡夫で、心の働きが弱く、天眼通もない。しかし、仏には特別な手立てがあり、極楽世界を目の当たりに見せることが出来た」と。
 すると韋提希は、「私は、いま仏さまのお力で極楽を拝見できました。しかし釋尊の入滅後、悪業煩悩に汚れ、様々な苦悩に責めれている未来の人々は、どのようにして阿弥陀仏や極楽を観ることが出来るのですか」と問い、定善十三観が説かれる縁が整うのである。

 定善とは、息慮凝心-慮りを息(や)め、散り乱れる心を凝らして禅定に入り、淨土や阿弥陀仏などを観想する観法。これ以降、正宗分(本文)に入り、十三通りの観法が順次説かれるのに先立ち、定善が浄土往生のための観法であることを示す序縁の意。またそれが、仏力によって成就される観であること示されている。
 親鸞様はここを
  「定善は観を示す縁なり」(『化巻』388頁)      
  「観は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり」(『一多』691頁)
と、「(自力の)定善は、他力の信心を示す縁」と、他力のこころに転意されている。

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